3月 25, 2015

『元気な今があるのは、母のおかげ』

暑さ寒さも彼岸まで、と言われるように
春分の日が過ぎて、もう春はすぐそばまで
きているようです。

お釈迦さまが説かれた
親の大恩十種について学んでおります。
次の十がそれです。

(1)  懐胎守護(かいたいしゅご)の恩
(2)  臨生受苦(りんしょうじゅく)の恩
(3)  生子忘憂(しょうじぼうゆう)の恩
(4)  乳哺養育(にゅうほよういく)の恩
(5)  廻乾就湿(えかんしゅうしつ)の恩
(6)  洗潅不浄(せんかんふじょう)の恩
(7)  嚥苦吐甘(えんくとかん)の恩
(8)  為造悪業(いぞうあくごう)の恩
(9)  遠行憶念(おんぎょうおくねん)の恩
(10) 究竟憐愍(くきょうれんみん)の恩

今回は(4)の
乳哺養育(にゅうほよういく)の恩についてです。

「乳哺養育」とは子に乳を与え、養育することです

「乳哺養育の恩」とは、昼夜を問わず、乳を与え、
成長するまで育ててくだされたご恩を言います。

小学生だった時、母から
「あんたは母乳で育てたので、夜中しょっちゅう泣いて
大変やった」と言われたことがあります。

母乳に比べて、粉ミルクは腹持ちがいいので、赤ちゃんは
よく眠るそうですが、母乳はそうではありません。

疲れて寝ている時に起されると腹が立ちます。

母は数え切れないほど私に起されて、
疲れた体に無理をして、年中無休で、
育ててくだされたのだなぁと思うと
申し訳ない気持ちでいっぱいになります。

赤ちゃんだった時の記憶はまったくありませんが、
元気な今があるのは間違いなく、母のおかげであることを
忘れてはならないと思います。

つづく

Posted by gokigenyo
2月 19, 2015

『死ぬほど苦しめても、喜んでくださる親心』

2月は「逃げる」と言われるように、
あっという間に半月が過ぎ、
もう1年の8分の1が終わってしまいました……。

2月15日は仏教を説かれた
お釈迦さまがお亡くなりになった日です。

お釈迦さまが教えていかれたことを
続けて話しております。

「親思う心にまさる親心」と言われます。

自分は忘れがちでも、
両親は、子供のことを念じ、心配されている
ことが知らされます。

その両親へのご恩について、お釈迦さまは
父母恩重経というお経に説かれています。

その中の親の大恩十種について学んでおります。
次の十がそれです。

(1)  懐胎守護(かいたいしゅご)の恩
(2)  臨生受苦(りんしょうじゅく)の恩
(3)  生子忘憂(しょうじぼうゆう)の恩
(4)  乳哺養育(にゅうほよういく)の恩
(5)  廻乾就湿(えかんしゅうしつ)の恩
(6)  洗潅不浄(せんかんふじょう)の恩
(7)  嚥苦吐甘(えんくとかん)の恩
(8)  為造悪業(いぞうあくごう)の恩
(9)  遠行憶念(おんぎょうおくねん)の恩
(10) 究竟憐愍(くきょうれんみん)の恩

今回は3番目の生子忘憂(しょうじぼうゆう)の恩についてです。

無事に出産すれば、死人が生き返ったように、
それまでの一切の苦しみを忘れ、喜んでくれるご恩です。

出産の苦しみを
「鼻からスイカを出す」と聞いたことがありますが、
男性からすれば想像を絶する激痛であり、
とても耐えられないと思います。

死ぬほどの苦しみに耐えてくださったのは
誰の為か。

我が子が無事、生まれてきたことを
心から喜んでくれる親心のありがたさを
忘れてはならないと反省いたします。

自分が赤ちゃんだったころの
写真を見ていると、自分ながら、
生き生きと、かわいらしい笑顔で
いろんな角度からの写真があって、
ほほえましく、楽しくなります。

それは写真を撮っている両親が
幸せで、笑顔で本当に子供を愛しているから、
子供もそんな表情をするのだ、と
思います。

写真を見ながら、両親の愛情に
感謝せずにおれないのです。

今の自分があるのは
本当に両親のおかげです。

もっと孝行せねば申し訳ないですね。

つづく

Posted by gokigenyo
5月 27, 2014

父母の恩の重きこと、天の極まりなきが如し

5月11日は母の日、父の日は来月の6月15日ですね。

両親へのご恩についてお釈迦さまは
父母恩重経というお経に説かれています。

その中の親の大恩十種について学びたいと思います。
次の十がそれです。

(1)  懐胎守護(かいたいしゅご)の恩
(2)  臨生受苦(りんしょうじゅく)の恩
(3)  生子忘憂(しょうじぼうゆう)の恩
(4)  乳哺養育(にゅうほよういく)の恩
(5)  廻乾就湿(えかんしゅうしつ)の恩
(6)  洗潅不浄(せんかんふじょう)の恩
(7)  嚥苦吐甘(えんくとかん)の恩
(8)  為造悪業(いぞうあくごう)の恩
(9)  遠行憶念(おんぎょうおくねん)の恩
(10) 究竟憐愍(くきょうれんみん)の恩

一つには懐胎守護の恩とは、
子を宿し、十月十日、無事な出産を念じ続けて下されたご恩です。

お釈迦さまは次のように説かれます。

「悲母、子を胎めば、十月の間に血を分け肉を頒ちて、
身重病を感ず。子の身体これに由りて成就す」

“母親は妊娠して十月の間、
自分の血肉を分けて子供の体を造り上げていく。
その激しい作業のため、
常に重病人のように感ずるが、こうして、
子供の体ができあがる”

二つには臨生受苦の恩です。

出産の痛みを陣痛と言われます。
陣とはいくさ、ということ。

この苦しみについて、お釈迦さまも特に心にとめておられたのは、
お母様であるマーヤー夫人がお釈迦さまを出産後、
7日で亡くなっておられることからもお分かりと思います。

いわゆる産後の肥立ちが悪く、亡くなられました。

自分の誕生日は母を最も苦しめた日。そのご恩を偲ぶ日でありたい。
と水戸黄門で有名な水戸光圀は言ったといいます。

そう思えば私たちが今、人間に生まれ、生きているのは
決して当たり前でない、両親の様々なご恩があってのことなんだ、
ということがお分かりと思います。

両親には常に「生んで育ててくれて有り難う」という気持ちで接し、
両親から何かしてもらったら「有り難う」と心から言える、
そういう人になりたいと思います。

つづく

Posted by gokigenyo
4月 19, 2014

人間に生まれることは有り難い?(2)

散りゆく桜を眺めながら、月日がたつ早さを
実感しています。

人間に生まれたことが如何に有り難いか、
「人身受け難し」のお釈迦さまのお言葉を通して
続けて話をしております。

人間に生まれることのありがたさを
今から約千年前、日本で活躍された源信僧都と
いう方が、教えられています。

源信僧都と言えば、『往生要集』、
『往生要集』と言えば源信僧都と言われるくらい、
有名な主著があります。

この『往生要集』は中国に伝わり、中国の人たちが
源信僧都のことを「小釈迦」とまで褒め称えたと
言われます。

その源信僧都の『横川法語』と言われるお言葉の中に
次のように書かれています。

「まず三悪道をはなれて、人間に生まるること、
大なるよろこびなり。

身は賤しくとも畜生に劣らんや、
家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、
心に思うことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず」
(横川法語)

三悪道とは、三つの苦しみの世界、ということで、
地獄界、餓鬼界、畜生界のことです。

畜生とは犬、猫、牛、ブタ、虫けらにいたるまでの
ものを言います。

牛や豚は人間に殺されて食べられてしまいます。
ああ、牛や豚に生まれてこなくて人間でよかったな、と
思われたことはないでしょうか。

その畜生界よりも餓鬼界のほうがもっと
苦しみが激しいと言われます。

餓鬼界とは食べ物も飲み物も皆、炎となって飲食できず、
飢えと渇きで苦しむ世界と言われます。

さらに地獄はもっと苦しい。
お釈迦さまはその地獄を八つに分けられ、八大地獄と
教えられています。

源信僧都の往生要集には三悪道の中で地獄を特に詳しく、
生々しく、赤裸々に教えられています。

その中、単純に数から考えても畜生すべてに生まれずして、
人間に生まれることは大変有り難いことです。

いかに人間に生まれたことが有り難いことか、
比べて喜びなさい、畜生、餓鬼、地獄に生まれずして、
人間に生まれたことを喜びなさい。

まずこれが喜べなかったら、本当の幸せへの道は
進めないのですよ。
と教えられているのです。

私たちは苦しむために生まれてきたのではありません。

本当の幸せ、無碍の一道、絶対の幸福になるために
人間に生まれてきたのです。

その絶対の幸福は有無を離れた、善悪を超えた世界。
そこまでは比べて、感謝して進む。

その過程がいかに大事か、ということを
源信僧都はこの『横川法語』で教えられています。

続けてお話ししていきます。

今日のリンクです。

つづく

Posted by gokigenyo
8月 16, 2013

人間に生まれることは有り難い?

厳しい暑さが続いています。
規則正しい生活、そして十分な栄養、水分補給で
この夏を乗り切りたいと思います。

前回の続きです。
浄土真宗親鸞会の講演会にて
聞かせていただいた内容をお話ししています。

人間に生まれてきたことを喜んでいる人はどれくらい
あるでしょうか。

自殺者について、北陸三県で富山が相当の差をつけて一番
多いそうです。
全国的に見ても一年で約三万人が自殺しています。

人間に生まれてきたことを恨んでいる人が多い中、
お釈迦さまは次のように仰っているのです。

「人身受け難し今已に受く」

人身とは人の体、人間、ということ。
人間として生まれることは難しい、とおっしゃっています。

日本一の金持ちになること。
選挙でしのぎをけずって当選すること。
そして世界中の人から認められるノーベル賞を取ることも
難しいです。

ある時、お釈迦さまのお弟子が、
人間に生まれることはどれほど難しいのですか、
とお釈迦さまに尋ねました。

その時、お釈迦さまは盲亀浮木の譬
というお話しをされています。

(お釈迦さま)
広い広い大海の底に一匹のめくらの亀がいた。
その大海に一本の丸太が浮いていた。
その丸太には穴が開いている。
その目の見えない亀が百年に一度
水面に顔を出すときに、ひょっと丸太棒の穴に
頭を入れることがあると思うか。

(お弟子)
何億年×何億年にはあるかもしれない。
ないとはいえませんが、めったにないことです。
ないといってもいいくらい、ないことです。

(お釈迦さま)
しかし人間に生まれることは亀が穴に頭を入れるよりも
もっと有り難いことなのだよ。

今日、有り難いという言葉はお礼の言葉に
なっています。有り難う、有り難く思います、などです。

本当は私たちは欲の深い者。出すのは刑務所の主人を
出すのもいやなのが欲。そんな欲深い人がよく私に
物を下されました、という意味です。

有ることがない、ということ。

だから日本一の金持ちになるよりも、
ずっとずっと難しいのが人間に生まれる、
ということなのです。

選挙に当選してさえ万歳しているのに、
人間に生まれて万歳している人がどれだけ
いるだろうか。

恨み呪っている人ばかりです。生まれ難い
ということが分からないのです。

親鸞聖人が尊敬されている方で
源信僧都という方があります。正信偈には

「源信広海一代教」(げんしんこうかいいちだいきょう)

とおっしゃっています。源信僧都は日本の方です。

往生要集という本を書かれた方です。
この本はすごい本で、あまりないことですが、
中国語に翻訳されるほど素晴らしい本です。
源信僧都は次のように教えられています。

まず三悪道を離れて人間に生るること、
大なるよろこびなり。

身は賤しくとも畜生に劣らんや、
家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、
心に思うことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず。
(源信僧都)

三悪道とは三つの苦しみの世界であり、
そこを離れて人間に生れることは大変
有り難いことであると仰有っています。

人間に生れることは有り難いことなんだ。
これが真実なのですが、それが分からない。

人間に生れることが有り難い、
ということが分からない。
お釈迦さま、そして源信僧都が言われていることは事実なのか、
そうでないのか。

どうしたら喜ぶようになるのか。
どうしたら人間に生れることが有り難い、
ということが分かるのでしょうか。

生まれがたい人間に生れてよかった、
となって人命の尊重が出ます。

人間の生命は地球よりも重い。人命は尊重である。
しかしそう言われても言葉だけが踊っているのでは
ないでしょうか。

子が親を殺し、親が子を殺す。
虫けらのように殺されています。

お釈迦様は別の譬で仰っています。
人間に生れるのが一握りの土の砂であれば、
人間以外に生まれるのは大地の砂のごとし、
と教えられました。
人間に生まれているのは手の中の土のみなのです。

人間に生れることが難しい。
生れがたい人間に生れてよかったと
どうしたら知らされるのか。

いや、
知らない人ばかりなのはどうしてなのでしょうか。

それは

「人身受け難し今已に聞く」の次の
「仏法聞き難し今已に聞く」のところで、
仏法が聞き難いからだと教えられています。

そのことについて、続けて話していきたいと思います。

つづく

Posted by gokigenyo
7月 4, 2013

なぜ生きる

今年も折り返し地点を過ぎました。
まさに光陰矢のごとし、
一生過ぎやすしと思わずにおれません。

浄土真宗親鸞会でお聞きした「なぜ生きる」
ということについて、少しお話ししたいと思います。

「なぜ生きる」ということは、すべての人の問題、
人類永遠のテーマです。

何のために生きるのか、ということです。
すべての人は生まれた時に海に放り出されたようなもの。

どこに向かって泳ぐのか、
泳がなければ沈んでしまう。泳ぐ方角がハッキリしていなければ
一生懸命泳いでも目的地に着くことなく、やがて力尽きて
海に沈んで土左衛門になってしまいます。

どこに向かって泳ぐのか、ということと同じように
私たちは何のために生きるのでしょう。

それがなぜ生きる、ということです。

それぞれ皆さん生きる目標、
これに向かって生きている、
というものがあると思います。

小学生のころ、マンガが好きで、
マンガ家になりたいと思ったものです。

マンガを書くために必要な筆や
特殊なペンを買いそろえて、毎日絵を描く
練習をしていました。

また、高校生になると、分かりやすく教えてくれる
数学の先生にあこがれて、数学の教師目指して
勉強しました。

このように、その時、その時、
目標としているものがあって、それに向かって
生きている人が多いのではないでしょうか。

仕事をするために生きているんだ、という人も
あるでしょう。

マイホームを建てるのが夢だ、という人。

旅行をして、美味しいものを食べる、温泉につかって
ゆっくりするのが喜びだ。

子供の成長が楽しみで生きている。

ノーベル賞がほしい、オリンピックで記録を作るために
生きている、という人もあると思います。

お金がたまるのが楽しみ、という人もあります。

私たちはこれらのことをするために人間に生まれて
きたのでしょうか。

これらのものをすべて手に入れたと言っていいほど、
成功したあの豊臣秀吉は次のように言っています。

おごらざる者もまた久しからず、
露と落ち、露と消えにし我が身かな、
難波のことも夢のまた夢

こう言って、秀吉は寂しく死んでいきました。

仕事も日本を統一するという事業を成し遂げた。
大阪城という大きな家を建てた。

日本中、好きな所へ行き放題です。
日本中の美味しいものを集めて食べていたに
違いありません。

日本中の金という金を我がものとした。
これだけやった秀吉が死んでいくときに
「夢のまた夢」だったと言って死んでいるのです。

私たちがこれがあったら幸せだと
目標にしているものすべてを手に入れた
あの家康も、

人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し

と言っています。

重荷とは苦しみのこと。死ぬまで苦しみ続けであった、
と言い残しています。

人生は苦しい、だから自殺する人も多いです。

お釈迦さまは自殺は愚かなことである、と教えられます。

キリスト教では神に対する反逆である、ということで
悪、と言う。

仏教では、どう教えられているのか、
蓮如上人という方は、次のようにおっしゃっています。

八万の法蔵を知るというとも
後世を知らざる人を愚者とす、
たとい一文不知の尼入道なりというとも
後世を知るを智者とす、といえり。

後世とは死んだ後の世界、これは私たち100%確実な
未来です。その未来が分からないで自殺する人、
後生が分からない人を愚者と言われている。

それはそのまま、
なぜ生きるか、どこに向かって生きているのか、
分からない、ということ。

なぜ生きるが分からないということは、
人間になぜ生まれて来たか分からない、ということに
他なりません。

人間に生まれた本当の意味が分からない、
ということです。

お釈迦さま人間に生まれたことを
喜ばねばならない、と

「人身受け難し今已に受く」

と仰有っています。

人間に生まれてきてよかった、この身になるために
生まれてきたのだ、という生命の歓喜がある、
と教えられています。

ではその身になるにはどうすればいいのか、
続けてお話ししたいと思います。

つづく

Posted by gokigenyo
6月 3, 2013

人生はフライトのよう

あっという間に5月も終わり、6月です。
まもなく1年の半分が過ぎようとしています。

小学生の頃は、一日一日が大変長く感じましたが、
今は一週間、1カ月が飛ぶように過ぎていく感じがします。

やれやれと思うともう1カ月が経っています。
機会をとらえてお釈迦さまの教えを学んでいきたいと思います。

人間の実相について教えられたお釈迦さまの
有名な譬えをお話ししています。

虎から必死に逃げた旅人は、断崖絶壁にあった
松の木から垂れる藤蔓にすがりました。

やれやれと思って辺りを見回すと、
下は底の知れぬ深い海が白い牙をむいて
絶壁を洗っている。

しかもそこから3匹の毒龍が赤い口を開けて
旅人が落ちるのを今か今かと待ち受けているのを見たのだ。

恐懼する旅人だったが、
今までで最も恐ろしい光景は頭上にあった。

命の藤蔓を白と黒のネズミが交代交代で
かじっているのを見たのだ。

どれだけ振り払おうとしても、
規則正しく、ネズミはかじり続けている。

これらは何を譬えられているのでしょうか。

藤蔓はやがて必ず噛み切られ、
旅人は深海に落ちて行かなければなりません。
それを仏教で後生の一大事と教えられます。

後生とは死んだ後、ということ。
すべて人は100%死んで行かなければなりません。
これほどの大事は
ありませんから、一大事と言われるのです。

ふとしたきっかけで、死んだらどうなるのか、
考えてみられたことがある方も多いのではないでしょうか。

死んだらどうなるのか。
死後の世界はあるのか、ないのか、
楽しい世界に行けるのか、
苦しみの世界に堕ちねばならないのか。

分かるようでさっぱり分かりません。
必ずぶち当たる死ではありますが、
その先はどうなっているのか、
分からないまま、私たちは死に向かって
進み、生きているのです。

私たちは生まれた時が、
飛行場を飛び立った時、と言えるでしょう。

飛行機には必ず目的地を確認して乗ります。
行き先のない飛行機に乗る人はありません。
燃料は有限でいつまでも飛んでいるわけにはいかないからです。

では私たちはどこへ向かって飛んでいるのでしょうか……。

やがて降りなければなりませんが、
着陸地はどうなっているのか。どこへ向かって飛んでいるのか、
ハッキリしないとすれば、どうでしょう。

今のフライトを心から楽しむことができるでしょうか。
必ず墜落せねばならぬ飛行機に乗っている乗客に
心からの安心、満足はあるでしょうか。

この後生の一大事の解決こそ、仏教の目的であり、
この譬え話も、後生の一大事を知らせるために
お釈迦さまが説かれたこともよく知っていただきたいと
思います。

後生の一大事とは、その解決とはどういうことなのか、
続けてお話ししたいと思います。

つづく

Posted by gokigenyo
3月 28, 2013

滝壺に向かう船

年が明けた、と思ったらもう、
3月も終わろうとしています。

毎日、毎年同じことの繰り返し、
自分は一体何のために生きているのだろう?

毎日のニュースを見て、一喜一憂していますが、
過ぎ去ってしまえば夢のようで、
時間だけがたっているような気がします。

矢のように過ぎていく日々の中で
ふと立ち止まって考えてみることがあります。

私たちの人生は滝壺に向かう船の中に
いるようなものとは言えないでしょうか。

政治も経済も科学も医学も、毎日の生活も、
すべて船の中での出来事です。

ではその船はどこに向かっているのでしょうか。

それは「死」という滝壺です。

必ず滝壺に落ちなければなりません。

昨日、交通事故で亡くなった方はもう船が
滝壺寸前まで進んでいたのです。

私たちも滝壺の近くまで来ているかもしれません。
老いも若いも関係ないことは皆さんもお分かりと思います。

そんな船の中にいて、

安心、満足できる道理があるでしょうか。

先が見えない不安に、
すべての人が覆われているのです。

お釈迦さまはそんな私たちに

「人生は苦なり」とおっしゃいました。

そんな100%確実に滝壺に堕ちて行かねばならない
船の中にいる私たちが
最もなさねばならないことは何でしょうか。

お釈迦さまは教えられます。

生きている時に本師本仏、
大宇宙の仏方の先生である阿弥陀仏が
つくられた大きな船に乗せていただくことができる。

しかもその大船は必ず

阿弥陀仏の極楽浄土まで届けてくだされる船です。

阿弥陀仏のお力によって
滝壺に向かう船から大悲の願船に
乗り換えさせていただくことが

私たちの人生の目的であり、

その乗り換え場が仏法を聞かせていただく聞法の場なのです。

その聞法の場である
浄土真宗親鸞会
親鸞会館に参詣して
聞かせていただいたことをお話ししていきたいと思います。

Posted by gokigenyo
10月 4, 2012

命は灯の風中にあるがごとし

暑かった夏も終わり、少しずつ涼しくなってきました。
夏の疲れがどっと出る頃ですので、気をつけたいと思います。

お釈迦さまの有名な譬えをお話ししています。

虎の難を逃れ、藤蔓につかまる旅人の目に飛び込んできたものは、
命としているこの藤蔓の松の木にかかっている部分を
交代交代にかじっている白と黒のネズミでした。

藤蔓以外、すがるものがない旅人にとって、
虎に出会った時よりも、
断崖絶壁にぶちあたった時よりも、
驚きであったに違いありません。

必死に藤蔓をゆらし、ネズミを追い払おうとしますが、
変わらず規則正しく、代わる代わるかじっています。

すると、旅人めがけて上から何か落ちてくる。
ネズミが小便でも垂れたかと思って手に取ってみると
何とも甘い香りがする。

そういえば、しばらく食べ物を口にしていなかった。
旅人はその手をなめてみた。
その瞬間、甘く美味しい感激が全身を貫く。
ハチミツであった。

ちょうど、松の木にミツバチが巣を作っていたのだ。
あまりにも美味しいので、今までネズミを追い払おうと振っていた
藤蔓を今度はハチミツを落とすために振るようになっていた。

旅人の頭にはもうネズミのことも、
断崖の虎も、
深海も、
三匹の毒龍(近々説明いたします)のことも
まったくなく、ハチミツに心奪われてしまったのです。

お釈迦さまがそこまで話をされた後、
ご説法を聞いていた時の王、勝光王が手を挙げる。

「お釈迦さま、この話、もうおやめください。
とても聞いておれません!旅人は何と愚かなのでしょう。
絶体絶命の危機にありながら、心はハチミツ一つに心奪われて、
我が身の大事を忘れているなんて……」

お釈迦さまは静かに口を開かれる。

「勝光王よ、この旅人は、そなたのすがたなのじゃ。
いや、王だけではない、ここにいる皆、
すべての人のことなのだ」

勝光王、そして聴衆も立ち上がる。

「私がなぜこんな愚かな旅人と言われるのでしょうか。
訳をお聞かせください」

お釈迦さまは諄々と古今東西の全人類の姿を
説法なされるのでありました。

この旅人の姿が、富山県の射水市にある親鸞会館で
聞かせていただいたことを思い出させました。

親鸞聖人という方が大変尊敬しておられた善導大師という方は
大変仏縁の深い方であった。
後生の一大事の解決をまじめに求められた方であった。

六時礼讃というお聖教に次のようにおっしゃっています。

人間そうそうとして衆務を営み、年命の日夜に去ることを覚えず。
灯火の風中にありて滅すること期し難きが如し。
忙々たる六道に定趣なし。
未だ解脱して苦海を出ずることを得ず。
如何が安然として恐懼せざらん。

毎日同じことの繰り返し。食て寝て起きてたれての繰り返し。
パンダの赤ちゃん、スカイツリーなどで退屈を紛らす。
毎日つまらない。皆同じことをしている。
政治変えたら科学が変わったらと思って一日生きたということは
後生に近づいている。一日墓に近づいた、ということ。

そんな当たり前のことを感ずる人がいない。
風の吹きすさぶ中に灯火があるように、
今晩死ぬかもしれない。
テレビ、ニュースには悲惨な事件ばかり。
未来どうなる?考えたことありますか。
なぜ考えないのか。必ず死ぬのに。

忙々たる六道に定趣なし、とは同じことの繰り返し。
はてしない、止まることがない。ぐるぐる回っている。

未だ解脱して………とは
後生の一大事解決する者がいない。
後生の一大事は阿弥陀仏しか助ける力はない。

如何が安然として………とは
なぜおそれないのか。驚くべきことに驚かないのか。
後生の一大事解決のために生きている。
苦しくともなぜ生きる。
二千畳(親鸞会館)に来られた目的、
ハッキリしていなければ一日生きても意味がない。

後生の一大事とは何か、
私たち一人一人の大問題であることをお釈迦さま、
そして七高僧と呼ばれる方々は教えてくださったのです。
(つづく)

Posted by gokigenyo
7月 3, 2012

一瞬の命でなさねばならないこと

6月も終わり、今年も半分が過ぎました。

小学生の時は一日一日が長く感じられましたが、
今になると月日が経つのは一週間、一月単位で過ぎていくように感じます。

ものすごいスピードで進んでいるのですが、それに気付かないで
いるようにも思います。

どこへ向かって進んでいるのでしょうか。

禅僧・一休は次のように言っています。

世の中の
娘が嫁と花咲いて
嬶としぼんで婆と
散りゆく

これは女性の一生ですが、男性も呼び名が違うだけで
同じコースをたどります。

確実に1日1日、散りゆくその時に近づいているのが人生であり、
本当は猛スピードで進んでいるのかもしれません……。

私の本当の相を譬えられたお釈迦さまのお話に戻ります。

飢えに狂った虎から、間一髪逃れ、崖に垂れる一本の藤蔓にすがる旅人。
この藤蔓は何を譬えられているのでしょうか。

これは私たちの寿命をあらわしています。

平均寿命が延びたと言っても、死ななくなるのではありません。
やがて必ず死なねばなりません。

やがて鳴き始めるセミはわずか1週間で死んでしまいます。
セミの1日は人間の10年にあたるようです。

私たちがセミを見ると何と儚いなぁ、短い命だなぁと思います。
一方、私たちは自分の命はまだまだ続くとぼんやりしています。

無量寿の仏さまから人間の一生をご覧になれば
私たちがセミに感ずる儚さよりも、もっともっと
私たちの一生の短さを儚いものと思われているに
違いありません。

だからこそ、太いロープではなく、細い細い藤蔓に
私たちの寿命を譬えられているのでしょう。

儚い一生で何をなすべきか。
「なぜ生きる」と問わずにおれません。

そして、虎から逃れたと思っている旅人はこの藤蔓にさえつかまっておれば大丈夫、
と安心しようとします。

すると空腹に気づき、辺りを見回すのでした。

そこで旅人が見つけたものは……。

つづく

親鸞会.netへ

Posted by gokigenyo