Archive for the '未分類' Category

なぜ生きる

今年も折り返し地点を過ぎました。
まさに光陰矢のごとし、
一生過ぎやすしと思わずにおれません。

浄土真宗親鸞会でお聞きした「なぜ生きる」
ということについて、少しお話ししたいと思います。

「なぜ生きる」ということは、すべての人の問題、
人類永遠のテーマです。

何のために生きるのか、ということです。
すべての人は生まれた時に海に放り出されたようなもの。

どこに向かって泳ぐのか、
泳がなければ沈んでしまう。泳ぐ方角がハッキリしていなければ
一生懸命泳いでも目的地に着くことなく、やがて力尽きて
海に沈んで土左衛門になってしまいます。

どこに向かって泳ぐのか、ということと同じように
私たちは何のために生きるのでしょう。

それがなぜ生きる、ということです。

それぞれ皆さん生きる目標、
これに向かって生きている、
というものがあると思います。

小学生のころ、マンガが好きで、
マンガ家になりたいと思ったものです。

マンガを書くために必要な筆や
特殊なペンを買いそろえて、毎日絵を描く
練習をしていました。

また、高校生になると、分かりやすく教えてくれる
数学の先生にあこがれて、数学の教師目指して
勉強しました。

このように、その時、その時、
目標としているものがあって、それに向かって
生きている人が多いのではないでしょうか。

仕事をするために生きているんだ、という人も
あるでしょう。

マイホームを建てるのが夢だ、という人。

旅行をして、美味しいものを食べる、温泉につかって
ゆっくりするのが喜びだ。

子供の成長が楽しみで生きている。

ノーベル賞がほしい、オリンピックで記録を作るために
生きている、という人もあると思います。

お金がたまるのが楽しみ、という人もあります。

私たちはこれらのことをするために人間に生まれて
きたのでしょうか。

これらのものをすべて手に入れたと言っていいほど、
成功したあの豊臣秀吉は次のように言っています。

おごらざる者もまた久しからず、
露と落ち、露と消えにし我が身かな、
難波のことも夢のまた夢

こう言って、秀吉は寂しく死んでいきました。

仕事も日本を統一するという事業を成し遂げた。
大阪城という大きな家を建てた。

日本中、好きな所へ行き放題です。
日本中の美味しいものを集めて食べていたに
違いありません。

日本中の金という金を我がものとした。
これだけやった秀吉が死んでいくときに
「夢のまた夢」だったと言って死んでいるのです。

私たちがこれがあったら幸せだと
目標にしているものすべてを手に入れた
あの家康も、

人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し

と言っています。

重荷とは苦しみのこと。死ぬまで苦しみ続けであった、
と言い残しています。

人生は苦しい、だから自殺する人も多いです。

お釈迦さまは自殺は愚かなことである、と教えられます。

キリスト教では神に対する反逆である、ということで
悪、と言う。

仏教では、どう教えられているのか、
蓮如上人という方は、次のようにおっしゃっています。

八万の法蔵を知るというとも
後世を知らざる人を愚者とす、
たとい一文不知の尼入道なりというとも
後世を知るを智者とす、といえり。

後世とは死んだ後の世界、これは私たち100%確実な
未来です。その未来が分からないで自殺する人、
後生が分からない人を愚者と言われている。

それはそのまま、
なぜ生きるか、どこに向かって生きているのか、
分からない、ということ。

なぜ生きるが分からないということは、
人間になぜ生まれて来たか分からない、ということに
他なりません。

人間に生まれた本当の意味が分からない、
ということです。

お釈迦さま人間に生まれたことを
喜ばねばならない、と

「人身受け難し今已に受く」

と仰有っています。

人間に生まれてきてよかった、この身になるために
生まれてきたのだ、という生命の歓喜がある、
と教えられています。

ではその身になるにはどうすればいいのか、
続けてお話ししたいと思います。

つづく

Posted by gokigenyo

滝壺に向かう船

年が明けた、と思ったらもう、
3月も終わろうとしています。

毎日、毎年同じことの繰り返し、
自分は一体何のために生きているのだろう?

毎日のニュースを見て、一喜一憂していますが、
過ぎ去ってしまえば夢のようで、
時間だけがたっているような気がします。

矢のように過ぎていく日々の中で
ふと立ち止まって考えてみることがあります。

私たちの人生は滝壺に向かう船の中に
いるようなものとは言えないでしょうか。

政治も経済も科学も医学も、毎日の生活も、
すべて船の中での出来事です。

ではその船はどこに向かっているのでしょうか。

それは「死」という滝壺です。

必ず滝壺に落ちなければなりません。

昨日、交通事故で亡くなった方はもう船が
滝壺寸前まで進んでいたのです。

私たちも滝壺の近くまで来ているかもしれません。
老いも若いも関係ないことは皆さんもお分かりと思います。

そんな船の中にいて、

安心、満足できる道理があるでしょうか。

先が見えない不安に、
すべての人が覆われているのです。

お釈迦さまはそんな私たちに

「人生は苦なり」とおっしゃいました。

そんな100%確実に滝壺に堕ちて行かねばならない
船の中にいる私たちが
最もなさねばならないことは何でしょうか。

お釈迦さまは教えられます。

生きている時に本師本仏、
大宇宙の仏方の先生である阿弥陀仏が
つくられた大きな船に乗せていただくことができる。

しかもその大船は必ず

阿弥陀仏の極楽浄土まで届けてくだされる船です。

阿弥陀仏のお力によって
滝壺に向かう船から大悲の願船に
乗り換えさせていただくことが

私たちの人生の目的であり、

その乗り換え場が仏法を聞かせていただく聞法の場なのです。

その聞法の場である
浄土真宗親鸞会
親鸞会館に参詣して
聞かせていただいたことをお話ししていきたいと思います。

Posted by gokigenyo

自分の番は今日かもしれない

猛暑が続いています。
まだ暑さはこれからでしょうか。

もうすぐ8月、お盆の時期ですね。
お盆の時期になると次の歌を思い出します。

鳥辺山 昨日の煙 今日も立つ
眺めて通る 人もいつまで

鳥辺山とは昔、京都にあった火葬場です。
煙がそこから立っているということは
誰か人が亡くなった、ということです。

昨日そこを通りがかった旅人が、
今日も煙が立っていることを見て

「今日も人が死ぬ日であったか……」

と家路を急ぐ。しかし、

その旅人もいつまで人の死を眺めておれる
だろうか。

やがて必ず、自分が死んで、自分の煙を
人に眺められる時が来るのだ。

100%確実な未来の準備はよいか、
と切り込まれている、そう思わずにおれません。

お盆は、亡くなった他人のための行事、
というくらいにしか思ってないのではないか。

自分が死んで追悼される日が必ずくる。

飛行機に墜落以上の大事はないように、
人生に死ぬ以上の大事はないでしょう。

生死の一大事とも、後生の一大事ともいわれる
ゆえんでです。

お盆は後生の一大事を知り、その解決に
向かって聞法精進させていただく、そういう
ご縁とさせていただかねば、と思います……。

お釈迦さまの譬え話にもどります。

すべての人は旅人であるとお釈迦さまは教えられます。

どこかへ向かっている。
どこから来て、どこへ行くのでしょうか。

「世の中の 娘が嫁と花咲いて
 嬶としぼんで 婆と散りゆく」

禅僧・一休はうたいました。

旅をしていくと自分の呼び名が変わっていく。
じっとしてはおれないのです。

娘と言われていたのに、もう結婚して、子供ができて、
孫もでき、お婆さんになってしまった……。

ものすごい勢いで進んでいるのだけは、間違いありません。

来たとこ知らず、行くとこ知らず。
迫る未来をだれも知らない。行く先が大切なのに、
分からない。だれも問題にしない。

そういう全人類に、

それでいいのか、
人生の目的を知りなさい

と、お釈迦さまは2600年前から
問い続けておられるのはないでしょうか。

つづく

Posted by gokigenyo

仏教の役割

1,2月もあっという間に過ぎ去り、
花咲く春まであと一歩、というところでしょうか。

先日、クローズアップ現代で
「岐路に立つお寺 ~問われる宗教の役割~」
が放映されました。

視聴率も大変高かったそうで、
仏教に対する世間の関心が高いことが分かります。

その中でゲストが
あるアンケートを紹介していました。

仏教にいい印象を持っているのは、90%。
しかし、寺に、となると25%となり、
まして僧侶には、10%となるとのこと。

仏教には何か、大切なことが教えられている、
ということは感じる。

しかし、今の寺や坊主は
その教えを伝えていない、
実践していない、
何か違うのではないか、

という意識が広くあることを示す
結果であると思います。

政治や経済など
それぞれ役割があって、
それが遂行されて、
私たちは生きています。

では仏教の役割は何でしょうか?

はたして、二千六百年前、
お釈迦さまは80年の生涯、
私たちに何を伝えようとなされたのか、
その私たちへの役割が
今まさに問われているのではないでしょうか。

政治、経済、科学や医学、
倫理、道徳とはまったく違う、

仏教の受け持ちとは、何か?

そのことについて教えられた、
お釈迦さまのたとえ話が
昨日6日、親鸞会のご法話で
明らかにされました。

続けてお話ししたいと思います。

Posted by gokigenyo

「捨てる」ことは難しい

今日から仕事始め、という方も
多いのではと思います。

正月を故郷で迎えたのが、つい昨日のように
感じられるのは私だけでしょうか。

1年があっというま。

何かと物が多くなってきた家の整理をしてて
こんなこともあったな、あの人はもういないんだな……
などいろいろ思い出します。

そんな中、服でも物でも、まるまる1年間使わなかった物がある。
本当に必要なものなのだろうか。

いらない物をバッサリ捨てて整理したい、という
強い気持ちがなかなか続かず、悩んで、なかなか進まない……。

先日、クローズアップ現代で
「“断捨離” 人生の大そうじをする人々」
が放送されていました。

「断捨離は整理や収納のノウハウを教える単なる片づけ術ではありません。
大切なのは物と向き合い今の自分に本当に必要かどうか考えること。
それによって生き方そのものを見つめ直すことにつながるのだといいます」
(「クローズアップ現代」より)

2010年の流行語大賞にノミネートされるほど、
関心が高い“断捨離”に、
私を含め、物や情報に溢れ、自分を見失って、身動きがとれず、
苦しんでいる多くの人の姿が目に見えるようです。

思い切って「捨てる」ことは難しい。
欲との戦いです。捨てる工夫ができるかどうかで、
その人が成長できるかどうか決まる、とも聞いたことが
あります。

「捨てる」ことで、本当に必要なものは、何か。
無駄なものがそぎ落とされ、本当に大事なものが見えてくるかも
しれません。

いや、待てよ……。そういえば、
自分が死んでしまったら、
自分の物、と思っているものは
家族によってすべて捨てられるでしょう。

死んで何一つ持っていけない。

蓮如上人という方の次のお言葉を思い出します。

「まことに死せんときは、
かねてたのみおきつる妻子も財宝も
わが身には一つも相添うことあるべからず。

されば死出の山路のすえ、
三塗の大河をばただ一人でこそ行きなんずれ」

信じ切っていた妻子や、かき集めたすべての物に見捨てられ、
一人寂しく、丸裸になって死んでいく。

私はいったい何処に行くのでしょうか。
死んだらどうなるのでしょうか。
自分の魂は、どこから来て、どこに去っていくのか。

お釈迦さまから続けて聞かせていただきたいと思います。

Posted by gokigenyo

お釈迦様がひらかれた悟りとは

 35歳の12月8日、お釈迦様は遂に一見明星して大悟徹底、三世十方の実相を諦観せられ、三界の大導師たる仏陀となられたのです。

 お釈迦さまがこのとき悟られた悟りの名前を「仏覚」(ぶっかく)と言われます。
一口にさとりと言いましても、低いさとりから高いさとりまで、52の位があると言われます。今大相撲が行われていますが、ちょうど相撲取りでも、下はフンドシ担ぎから上は大関、横綱までいろいろあるようなものです。その最高無上のさとりを「仏覚」といい、この上がありませんので、「無上覚」ともいわれます。その覚りを開かれた方だけを「仏」とか「仏さま」といわれるのです。

 さとりを開くことを山登りに例えますと、一合目よりも二合目、二合目よりも三合目と、登れば登るほど、見える景色は広がっていきます。そして頂上まで登り詰めた時、辺り一面を見渡すことができるように、最高無上のさとりである仏覚まで到達した方だけが、大宇宙の真理すべてを体得することができるのです。

 話はそれるかもしれませんが、しばらく大阪にいた時のことです。家近くの山頂から見渡す夜景は、ライトアップされる建物が地上に降った星々のようでそれはそれはきれいで素晴らしい眺めだったことを思い出します。

頂上から見える景色は壮観でうっとりさせるものなんですね。

 話を戻します。さきほどの52あるさとりの位で、1段違えば人間と虫けらほどの境界の違いがあると言われます。私たちがゴキブリにテレビやパソコンの説明をしてその使い方を分からせることができるでしょうか。分からせようという気もおきないのではないでしょうか。

 お釈迦さまは世俗の欲楽に耽っている人々、私たちにはその悟った法を理解させることができないであろう、いや私たちが理解できないばかりでなく、私たちが法を謗る結果になるかもしれないと考え一時自殺をはかられ説法を躊躇せられた程だったとお聞きします。

 しかし、この歓びをあらゆる人々と、ともにしたい、の念願が心の深奥よりわき上がられたお釈迦さまは、仏の覚りを開かれてからお亡くなりになるまでの45年間、全人類の救われる道を明かされていかれたのです。それが、仏教なのです。

 そのお釈迦さまの本意を、明らかにされた方が、日本にお生まれになった親鸞聖人であったのです。

 そして、お釈迦さまはかつて随従した橋陳如らの救済を思い立たれたのでした。

Posted by gokigenyo