Archive for the 'お釈迦様の教え' Category

『元気な今があるのは、母のおかげ』

暑さ寒さも彼岸まで、と言われるように
春分の日が過ぎて、もう春はすぐそばまで
きているようです。

お釈迦さまが説かれた
親の大恩十種について学んでおります。
次の十がそれです。

(1)  懐胎守護(かいたいしゅご)の恩
(2)  臨生受苦(りんしょうじゅく)の恩
(3)  生子忘憂(しょうじぼうゆう)の恩
(4)  乳哺養育(にゅうほよういく)の恩
(5)  廻乾就湿(えかんしゅうしつ)の恩
(6)  洗潅不浄(せんかんふじょう)の恩
(7)  嚥苦吐甘(えんくとかん)の恩
(8)  為造悪業(いぞうあくごう)の恩
(9)  遠行憶念(おんぎょうおくねん)の恩
(10) 究竟憐愍(くきょうれんみん)の恩

今回は(4)の
乳哺養育(にゅうほよういく)の恩についてです。

「乳哺養育」とは子に乳を与え、養育することです

「乳哺養育の恩」とは、昼夜を問わず、乳を与え、
成長するまで育ててくだされたご恩を言います。

小学生だった時、母から
「あんたは母乳で育てたので、夜中しょっちゅう泣いて
大変やった」と言われたことがあります。

母乳に比べて、粉ミルクは腹持ちがいいので、赤ちゃんは
よく眠るそうですが、母乳はそうではありません。

疲れて寝ている時に起されると腹が立ちます。

母は数え切れないほど私に起されて、
疲れた体に無理をして、年中無休で、
育ててくだされたのだなぁと思うと
申し訳ない気持ちでいっぱいになります。

赤ちゃんだった時の記憶はまったくありませんが、
元気な今があるのは間違いなく、母のおかげであることを
忘れてはならないと思います。

つづく

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『死ぬほど苦しめても、喜んでくださる親心』

2月は「逃げる」と言われるように、
あっという間に半月が過ぎ、
もう1年の8分の1が終わってしまいました……。

2月15日は仏教を説かれた
お釈迦さまがお亡くなりになった日です。

お釈迦さまが教えていかれたことを
続けて話しております。

「親思う心にまさる親心」と言われます。

自分は忘れがちでも、
両親は、子供のことを念じ、心配されている
ことが知らされます。

その両親へのご恩について、お釈迦さまは
父母恩重経というお経に説かれています。

その中の親の大恩十種について学んでおります。
次の十がそれです。

(1)  懐胎守護(かいたいしゅご)の恩
(2)  臨生受苦(りんしょうじゅく)の恩
(3)  生子忘憂(しょうじぼうゆう)の恩
(4)  乳哺養育(にゅうほよういく)の恩
(5)  廻乾就湿(えかんしゅうしつ)の恩
(6)  洗潅不浄(せんかんふじょう)の恩
(7)  嚥苦吐甘(えんくとかん)の恩
(8)  為造悪業(いぞうあくごう)の恩
(9)  遠行憶念(おんぎょうおくねん)の恩
(10) 究竟憐愍(くきょうれんみん)の恩

今回は3番目の生子忘憂(しょうじぼうゆう)の恩についてです。

無事に出産すれば、死人が生き返ったように、
それまでの一切の苦しみを忘れ、喜んでくれるご恩です。

出産の苦しみを
「鼻からスイカを出す」と聞いたことがありますが、
男性からすれば想像を絶する激痛であり、
とても耐えられないと思います。

死ぬほどの苦しみに耐えてくださったのは
誰の為か。

我が子が無事、生まれてきたことを
心から喜んでくれる親心のありがたさを
忘れてはならないと反省いたします。

自分が赤ちゃんだったころの
写真を見ていると、自分ながら、
生き生きと、かわいらしい笑顔で
いろんな角度からの写真があって、
ほほえましく、楽しくなります。

それは写真を撮っている両親が
幸せで、笑顔で本当に子供を愛しているから、
子供もそんな表情をするのだ、と
思います。

写真を見ながら、両親の愛情に
感謝せずにおれないのです。

今の自分があるのは
本当に両親のおかげです。

もっと孝行せねば申し訳ないですね。

つづく

Posted by gokigenyo

父母の恩の重きこと、天の極まりなきが如し

5月11日は母の日、父の日は来月の6月15日ですね。

両親へのご恩についてお釈迦さまは
父母恩重経というお経に説かれています。

その中の親の大恩十種について学びたいと思います。
次の十がそれです。

(1)  懐胎守護(かいたいしゅご)の恩
(2)  臨生受苦(りんしょうじゅく)の恩
(3)  生子忘憂(しょうじぼうゆう)の恩
(4)  乳哺養育(にゅうほよういく)の恩
(5)  廻乾就湿(えかんしゅうしつ)の恩
(6)  洗潅不浄(せんかんふじょう)の恩
(7)  嚥苦吐甘(えんくとかん)の恩
(8)  為造悪業(いぞうあくごう)の恩
(9)  遠行憶念(おんぎょうおくねん)の恩
(10) 究竟憐愍(くきょうれんみん)の恩

一つには懐胎守護の恩とは、
子を宿し、十月十日、無事な出産を念じ続けて下されたご恩です。

お釈迦さまは次のように説かれます。

「悲母、子を胎めば、十月の間に血を分け肉を頒ちて、
身重病を感ず。子の身体これに由りて成就す」

“母親は妊娠して十月の間、
自分の血肉を分けて子供の体を造り上げていく。
その激しい作業のため、
常に重病人のように感ずるが、こうして、
子供の体ができあがる”

二つには臨生受苦の恩です。

出産の痛みを陣痛と言われます。
陣とはいくさ、ということ。

この苦しみについて、お釈迦さまも特に心にとめておられたのは、
お母様であるマーヤー夫人がお釈迦さまを出産後、
7日で亡くなっておられることからもお分かりと思います。

いわゆる産後の肥立ちが悪く、亡くなられました。

自分の誕生日は母を最も苦しめた日。そのご恩を偲ぶ日でありたい。
と水戸黄門で有名な水戸光圀は言ったといいます。

そう思えば私たちが今、人間に生まれ、生きているのは
決して当たり前でない、両親の様々なご恩があってのことなんだ、
ということがお分かりと思います。

両親には常に「生んで育ててくれて有り難う」という気持ちで接し、
両親から何かしてもらったら「有り難う」と心から言える、
そういう人になりたいと思います。

つづく

Posted by gokigenyo

人間に生まれることは有り難い?(2)

散りゆく桜を眺めながら、月日がたつ早さを
実感しています。

人間に生まれたことが如何に有り難いか、
「人身受け難し」のお釈迦さまのお言葉を通して
続けて話をしております。

人間に生まれることのありがたさを
今から約千年前、日本で活躍された源信僧都と
いう方が、教えられています。

源信僧都と言えば、『往生要集』、
『往生要集』と言えば源信僧都と言われるくらい、
有名な主著があります。

この『往生要集』は中国に伝わり、中国の人たちが
源信僧都のことを「小釈迦」とまで褒め称えたと
言われます。

その源信僧都の『横川法語』と言われるお言葉の中に
次のように書かれています。

「まず三悪道をはなれて、人間に生まるること、
大なるよろこびなり。

身は賤しくとも畜生に劣らんや、
家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、
心に思うことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず」
(横川法語)

三悪道とは、三つの苦しみの世界、ということで、
地獄界、餓鬼界、畜生界のことです。

畜生とは犬、猫、牛、ブタ、虫けらにいたるまでの
ものを言います。

牛や豚は人間に殺されて食べられてしまいます。
ああ、牛や豚に生まれてこなくて人間でよかったな、と
思われたことはないでしょうか。

その畜生界よりも餓鬼界のほうがもっと
苦しみが激しいと言われます。

餓鬼界とは食べ物も飲み物も皆、炎となって飲食できず、
飢えと渇きで苦しむ世界と言われます。

さらに地獄はもっと苦しい。
お釈迦さまはその地獄を八つに分けられ、八大地獄と
教えられています。

源信僧都の往生要集には三悪道の中で地獄を特に詳しく、
生々しく、赤裸々に教えられています。

その中、単純に数から考えても畜生すべてに生まれずして、
人間に生まれることは大変有り難いことです。

いかに人間に生まれたことが有り難いことか、
比べて喜びなさい、畜生、餓鬼、地獄に生まれずして、
人間に生まれたことを喜びなさい。

まずこれが喜べなかったら、本当の幸せへの道は
進めないのですよ。
と教えられているのです。

私たちは苦しむために生まれてきたのではありません。

本当の幸せ、無碍の一道、絶対の幸福になるために
人間に生まれてきたのです。

その絶対の幸福は有無を離れた、善悪を超えた世界。
そこまでは比べて、感謝して進む。

その過程がいかに大事か、ということを
源信僧都はこの『横川法語』で教えられています。

続けてお話ししていきます。

今日のリンクです。

つづく

Posted by gokigenyo

人間に生まれることは有り難い?

厳しい暑さが続いています。
規則正しい生活、そして十分な栄養、水分補給で
この夏を乗り切りたいと思います。

前回の続きです。
浄土真宗親鸞会の講演会にて
聞かせていただいた内容をお話ししています。

人間に生まれてきたことを喜んでいる人はどれくらい
あるでしょうか。

自殺者について、北陸三県で富山が相当の差をつけて一番
多いそうです。
全国的に見ても一年で約三万人が自殺しています。

人間に生まれてきたことを恨んでいる人が多い中、
お釈迦さまは次のように仰っているのです。

「人身受け難し今已に受く」

人身とは人の体、人間、ということ。
人間として生まれることは難しい、とおっしゃっています。

日本一の金持ちになること。
選挙でしのぎをけずって当選すること。
そして世界中の人から認められるノーベル賞を取ることも
難しいです。

ある時、お釈迦さまのお弟子が、
人間に生まれることはどれほど難しいのですか、
とお釈迦さまに尋ねました。

その時、お釈迦さまは盲亀浮木の譬
というお話しをされています。

(お釈迦さま)
広い広い大海の底に一匹のめくらの亀がいた。
その大海に一本の丸太が浮いていた。
その丸太には穴が開いている。
その目の見えない亀が百年に一度
水面に顔を出すときに、ひょっと丸太棒の穴に
頭を入れることがあると思うか。

(お弟子)
何億年×何億年にはあるかもしれない。
ないとはいえませんが、めったにないことです。
ないといってもいいくらい、ないことです。

(お釈迦さま)
しかし人間に生まれることは亀が穴に頭を入れるよりも
もっと有り難いことなのだよ。

今日、有り難いという言葉はお礼の言葉に
なっています。有り難う、有り難く思います、などです。

本当は私たちは欲の深い者。出すのは刑務所の主人を
出すのもいやなのが欲。そんな欲深い人がよく私に
物を下されました、という意味です。

有ることがない、ということ。

だから日本一の金持ちになるよりも、
ずっとずっと難しいのが人間に生まれる、
ということなのです。

選挙に当選してさえ万歳しているのに、
人間に生まれて万歳している人がどれだけ
いるだろうか。

恨み呪っている人ばかりです。生まれ難い
ということが分からないのです。

親鸞聖人が尊敬されている方で
源信僧都という方があります。正信偈には

「源信広海一代教」(げんしんこうかいいちだいきょう)

とおっしゃっています。源信僧都は日本の方です。

往生要集という本を書かれた方です。
この本はすごい本で、あまりないことですが、
中国語に翻訳されるほど素晴らしい本です。
源信僧都は次のように教えられています。

まず三悪道を離れて人間に生るること、
大なるよろこびなり。

身は賤しくとも畜生に劣らんや、
家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、
心に思うことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず。
(源信僧都)

三悪道とは三つの苦しみの世界であり、
そこを離れて人間に生れることは大変
有り難いことであると仰有っています。

人間に生れることは有り難いことなんだ。
これが真実なのですが、それが分からない。

人間に生れることが有り難い、
ということが分からない。
お釈迦さま、そして源信僧都が言われていることは事実なのか、
そうでないのか。

どうしたら喜ぶようになるのか。
どうしたら人間に生れることが有り難い、
ということが分かるのでしょうか。

生まれがたい人間に生れてよかった、
となって人命の尊重が出ます。

人間の生命は地球よりも重い。人命は尊重である。
しかしそう言われても言葉だけが踊っているのでは
ないでしょうか。

子が親を殺し、親が子を殺す。
虫けらのように殺されています。

お釈迦様は別の譬で仰っています。
人間に生れるのが一握りの土の砂であれば、
人間以外に生まれるのは大地の砂のごとし、
と教えられました。
人間に生まれているのは手の中の土のみなのです。

人間に生れることが難しい。
生れがたい人間に生れてよかったと
どうしたら知らされるのか。

いや、
知らない人ばかりなのはどうしてなのでしょうか。

それは

「人身受け難し今已に聞く」の次の
「仏法聞き難し今已に聞く」のところで、
仏法が聞き難いからだと教えられています。

そのことについて、続けて話していきたいと思います。

つづく

Posted by gokigenyo

人生はフライトのよう

あっという間に5月も終わり、6月です。
まもなく1年の半分が過ぎようとしています。

小学生の頃は、一日一日が大変長く感じましたが、
今は一週間、1カ月が飛ぶように過ぎていく感じがします。

やれやれと思うともう1カ月が経っています。
機会をとらえてお釈迦さまの教えを学んでいきたいと思います。

人間の実相について教えられたお釈迦さまの
有名な譬えをお話ししています。

虎から必死に逃げた旅人は、断崖絶壁にあった
松の木から垂れる藤蔓にすがりました。

やれやれと思って辺りを見回すと、
下は底の知れぬ深い海が白い牙をむいて
絶壁を洗っている。

しかもそこから3匹の毒龍が赤い口を開けて
旅人が落ちるのを今か今かと待ち受けているのを見たのだ。

恐懼する旅人だったが、
今までで最も恐ろしい光景は頭上にあった。

命の藤蔓を白と黒のネズミが交代交代で
かじっているのを見たのだ。

どれだけ振り払おうとしても、
規則正しく、ネズミはかじり続けている。

これらは何を譬えられているのでしょうか。

藤蔓はやがて必ず噛み切られ、
旅人は深海に落ちて行かなければなりません。
それを仏教で後生の一大事と教えられます。

後生とは死んだ後、ということ。
すべて人は100%死んで行かなければなりません。
これほどの大事は
ありませんから、一大事と言われるのです。

ふとしたきっかけで、死んだらどうなるのか、
考えてみられたことがある方も多いのではないでしょうか。

死んだらどうなるのか。
死後の世界はあるのか、ないのか、
楽しい世界に行けるのか、
苦しみの世界に堕ちねばならないのか。

分かるようでさっぱり分かりません。
必ずぶち当たる死ではありますが、
その先はどうなっているのか、
分からないまま、私たちは死に向かって
進み、生きているのです。

私たちは生まれた時が、
飛行場を飛び立った時、と言えるでしょう。

飛行機には必ず目的地を確認して乗ります。
行き先のない飛行機に乗る人はありません。
燃料は有限でいつまでも飛んでいるわけにはいかないからです。

では私たちはどこへ向かって飛んでいるのでしょうか……。

やがて降りなければなりませんが、
着陸地はどうなっているのか。どこへ向かって飛んでいるのか、
ハッキリしないとすれば、どうでしょう。

今のフライトを心から楽しむことができるでしょうか。
必ず墜落せねばならぬ飛行機に乗っている乗客に
心からの安心、満足はあるでしょうか。

この後生の一大事の解決こそ、仏教の目的であり、
この譬え話も、後生の一大事を知らせるために
お釈迦さまが説かれたこともよく知っていただきたいと
思います。

後生の一大事とは、その解決とはどういうことなのか、
続けてお話ししたいと思います。

つづく

Posted by gokigenyo

命は灯の風中にあるがごとし

暑かった夏も終わり、少しずつ涼しくなってきました。
夏の疲れがどっと出る頃ですので、気をつけたいと思います。

お釈迦さまの有名な譬えをお話ししています。

虎の難を逃れ、藤蔓につかまる旅人の目に飛び込んできたものは、
命としているこの藤蔓の松の木にかかっている部分を
交代交代にかじっている白と黒のネズミでした。

藤蔓以外、すがるものがない旅人にとって、
虎に出会った時よりも、
断崖絶壁にぶちあたった時よりも、
驚きであったに違いありません。

必死に藤蔓をゆらし、ネズミを追い払おうとしますが、
変わらず規則正しく、代わる代わるかじっています。

すると、旅人めがけて上から何か落ちてくる。
ネズミが小便でも垂れたかと思って手に取ってみると
何とも甘い香りがする。

そういえば、しばらく食べ物を口にしていなかった。
旅人はその手をなめてみた。
その瞬間、甘く美味しい感激が全身を貫く。
ハチミツであった。

ちょうど、松の木にミツバチが巣を作っていたのだ。
あまりにも美味しいので、今までネズミを追い払おうと振っていた
藤蔓を今度はハチミツを落とすために振るようになっていた。

旅人の頭にはもうネズミのことも、
断崖の虎も、
深海も、
三匹の毒龍(近々説明いたします)のことも
まったくなく、ハチミツに心奪われてしまったのです。

お釈迦さまがそこまで話をされた後、
ご説法を聞いていた時の王、勝光王が手を挙げる。

「お釈迦さま、この話、もうおやめください。
とても聞いておれません!旅人は何と愚かなのでしょう。
絶体絶命の危機にありながら、心はハチミツ一つに心奪われて、
我が身の大事を忘れているなんて……」

お釈迦さまは静かに口を開かれる。

「勝光王よ、この旅人は、そなたのすがたなのじゃ。
いや、王だけではない、ここにいる皆、
すべての人のことなのだ」

勝光王、そして聴衆も立ち上がる。

「私がなぜこんな愚かな旅人と言われるのでしょうか。
訳をお聞かせください」

お釈迦さまは諄々と古今東西の全人類の姿を
説法なされるのでありました。

この旅人の姿が、富山県の射水市にある親鸞会館で
聞かせていただいたことを思い出させました。

親鸞聖人という方が大変尊敬しておられた善導大師という方は
大変仏縁の深い方であった。
後生の一大事の解決をまじめに求められた方であった。

六時礼讃というお聖教に次のようにおっしゃっています。

人間そうそうとして衆務を営み、年命の日夜に去ることを覚えず。
灯火の風中にありて滅すること期し難きが如し。
忙々たる六道に定趣なし。
未だ解脱して苦海を出ずることを得ず。
如何が安然として恐懼せざらん。

毎日同じことの繰り返し。食て寝て起きてたれての繰り返し。
パンダの赤ちゃん、スカイツリーなどで退屈を紛らす。
毎日つまらない。皆同じことをしている。
政治変えたら科学が変わったらと思って一日生きたということは
後生に近づいている。一日墓に近づいた、ということ。

そんな当たり前のことを感ずる人がいない。
風の吹きすさぶ中に灯火があるように、
今晩死ぬかもしれない。
テレビ、ニュースには悲惨な事件ばかり。
未来どうなる?考えたことありますか。
なぜ考えないのか。必ず死ぬのに。

忙々たる六道に定趣なし、とは同じことの繰り返し。
はてしない、止まることがない。ぐるぐる回っている。

未だ解脱して………とは
後生の一大事解決する者がいない。
後生の一大事は阿弥陀仏しか助ける力はない。

如何が安然として………とは
なぜおそれないのか。驚くべきことに驚かないのか。
後生の一大事解決のために生きている。
苦しくともなぜ生きる。
二千畳(親鸞会館)に来られた目的、
ハッキリしていなければ一日生きても意味がない。

後生の一大事とは何か、
私たち一人一人の大問題であることをお釈迦さま、
そして七高僧と呼ばれる方々は教えてくださったのです。
(つづく)

Posted by gokigenyo

一瞬の命でなさねばならないこと

6月も終わり、今年も半分が過ぎました。

小学生の時は一日一日が長く感じられましたが、
今になると月日が経つのは一週間、一月単位で過ぎていくように感じます。

ものすごいスピードで進んでいるのですが、それに気付かないで
いるようにも思います。

どこへ向かって進んでいるのでしょうか。

禅僧・一休は次のように言っています。

世の中の
娘が嫁と花咲いて
嬶としぼんで婆と
散りゆく

これは女性の一生ですが、男性も呼び名が違うだけで
同じコースをたどります。

確実に1日1日、散りゆくその時に近づいているのが人生であり、
本当は猛スピードで進んでいるのかもしれません……。

私の本当の相を譬えられたお釈迦さまのお話に戻ります。

飢えに狂った虎から、間一髪逃れ、崖に垂れる一本の藤蔓にすがる旅人。
この藤蔓は何を譬えられているのでしょうか。

これは私たちの寿命をあらわしています。

平均寿命が延びたと言っても、死ななくなるのではありません。
やがて必ず死なねばなりません。

やがて鳴き始めるセミはわずか1週間で死んでしまいます。
セミの1日は人間の10年にあたるようです。

私たちがセミを見ると何と儚いなぁ、短い命だなぁと思います。
一方、私たちは自分の命はまだまだ続くとぼんやりしています。

無量寿の仏さまから人間の一生をご覧になれば
私たちがセミに感ずる儚さよりも、もっともっと
私たちの一生の短さを儚いものと思われているに
違いありません。

だからこそ、太いロープではなく、細い細い藤蔓に
私たちの寿命を譬えられているのでしょう。

儚い一生で何をなすべきか。
「なぜ生きる」と問わずにおれません。

そして、虎から逃れたと思っている旅人はこの藤蔓にさえつかまっておれば大丈夫、
と安心しようとします。

すると空腹に気づき、辺りを見回すのでした。

そこで旅人が見つけたものは……。

つづく

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Posted by gokigenyo

天下無敵の力士に勝る者

5月も連休が終わり、あっと言う間に半月が過ぎました。
光陰矢の如しと言われます。

「何となく過ぎていく毎日……。
同じことの繰り返しで一日が終わる。

周りには家族がいて、友達もいる。
当たり前のことが当たり前のように過ぎていく。

そんな日常がずっと続くと思っている……。

とくに不満もないが、何かが足りないとも思う。

このままでいいのかな……」

知り合いのつぶやきですが、
皆さんはいかが思われますでしょうか……。

さて、
お釈迦さまの譬え話を続けたいと思います。

寂しい野原を歩く旅人の前方から
異様なうなり声が聞こえる。

旅人が目を凝らすと
薄暗い前方から大きな影が近づいてくるのが見えた。

それはなんと、
飢えた大きな虎だった。

その時、旅人はさとった。
人骨が散在していた理由を。そして自分も食われて骨と化してしまう
恐ろしい未来を。

旅人はそう気づくやいなや、脱兎のごとく
もと来た道を引き返した。

虎は猛然と旅人めがけて走ってくる。
所詮は人間と虎のかけっこ、必ず追いつかれることは分かっていた。

あまりに慌てて、旅人は道を間違える。
やがて道は途切れ、断崖絶壁にぶち当たってしまった。

虎はもう、すぐそこまで迫っていた。

もうダメだ!と断崖絶壁にあった松の木を
クルクル回り出したその時、

「犬も歩けば棒に当たる」

その松の木の根元から
一本の藤づるが垂れ下がっているのを発見した。

その藤蔓につかまってすり落ちたと同時に
虎が走り着いた。

獲物を逃がした虎は悔しさから
旅人の頭上で何度も吠えていた……。

この虎はいったい何を表しているのでしょうか。
それは私たちに突然やってくる
『無常の風』である、とお釈迦さまは
教えられています。

無常とは何か。

仏教で

「諸行無常」

と教えられています。

諸行とはすべてもの、ということ。
無常とは常が無く、続かない、ということ。

この世の一切は続かない、変わらないものは
何一つない、ということです。

そんな世界に私たちは住んでいる、ということを
有名な歎異抄には

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は……」

と言われています。

私たちにとって、死ほどの無常はありません。

突然やってくる風の如く、死は予測不可能であり、
すべての人にとって、逃れようもありませんから

この飢えた虎を「無常の風」と教えられているのです。

徳川時代に有名な力士であった谷風という
関取があった。

ある日のこと、野原を歩いていた谷風のところへ
小さな小僧がやってきて

「関取一番とろうか」

と途方もないことを言ってきた。

谷風 「ワシを日の下開山と知ってのことか」

小僧 「知っていればこそ、一番取ろうと言ったのだ」

谷風 「おのれ生意気なヤツ。どこからでもかかってこい」

取り組んでみると、この小僧、ところが中々腕力がある。
谷風、満身の力を出したが、びくともしない。

やがて遂に、谷風は、草むらに
放り投げられてしまった。

子供に尻餅をつかされ、驚いた谷風は

「ヤア小僧、暫く待った。この谷風は天下無敵と
自他共に認めていたところじゃが、お主はワシよりも
一倍強い。お主はいったい、何者じゃ。名前を聞かせて
くれい」

小僧、笑って
「貴方は谷風でも、私は『無常の風』じゃ」

と言ったという。

なるほど、どんな英雄豪傑や日の下開山の谷風でも
もうこの世にはいません。

無常の虎は無敵であり、
今までどれだけの人が食い殺されていったかしれません。

いえ、それは他人事ではありません。
私たち一人一人の背後にそれぞれの無常の虎が
迫っているのです。

そんな状況にありながら、
一大事に驚かないのはなぜでしょうか……。

つづく

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Posted by gokigenyo

仏眼に映る私の姿

1月もあっという間に20日を過ぎました。
インフルエンザ流行のニュースを
耳にするようになりました。

・こまめな手洗い、うがいを徹底する。
・咳やくしゃみが出る場合は咳エチケット、マスクをする。

そして十分な休養とバランスの良い食生活を
心がけて乗り越えたいと思います。

昨年から、人間とはどういうものか、
仏の眼から御覧になられた私たち人間は
どんな姿をしているのか、

ということをお釈迦さまの譬え話を
通して学んでおります。

話は変わりますが、今は雪の降る寒い季節。
仕事場近くのアジサイが雪から守るために
ナワで縛られています。
そのナワと同じ色になって、
もう枯れてしまったのではないか、とさえ思う
そのアジサイも6月頃になれば綺麗な花を咲かせます。

冬の間だけ生きる虫がいれば、
この枯れ木が、あの色鮮やかな
アジサイになるなんて、
夢にも思えないでしょう。

いっぽう、人間の寿命は延びたと言っても大宇宙の歴史に比べれば
瞬きするほどの間もありません。

無量寿の仏さまから私たち人間を御覧になると、
どうでしょうか。
明日とも知れぬ命を持ちながら、
一体どこに向かっているのか。

「世人薄俗にして、共に不急の事を諍う」(『大無量寿経』)

「世の中の人は、目先のことばかりに心をうばわれて、
無明の闇を破る人生の大事を知らない」

仏眼に映る、私たちの知らない本当の自分を
心静かに見つめていかねばならない時が
今ではないか、と思います。

譬え話に戻ります。

急ぐ家路で、広がる人間の白骨に旅人は驚きました。

それは私たちが他人の死を見たり、聞いたりした時の
驚きをお釈迦さまは譬えておられるのです。

我が身の無常に対する感度を
四通りの馬にさらに譬えてお釈迦さまは表されています。

1.鞭影を見て驚く馬。
2.鞭、毛に触れて驚く馬。
3.鞭、肉に当たって驚く馬。
4.鞭、骨にこたえて驚く馬。

以下に簡単に説明しましょう。

(1) 鞭影を見て驚く馬。
 落花や火葬場より立ち昇る煙を眺めて、やがて我が身にも襲いかかる死に驚く人。
「鳥辺山 昨日の煙 今日も立つ
    眺めて通る 人も何時まで」
 最も無常に敏感な人。

(2) 鞭、毛に触れて驚く馬。
 葬式の行列や霊柩車を見て我が身の無常に驚く人。

(3) 鞭、肉に当たって驚く馬。
 親戚や隣家の人の葬式で、我が身の無常に驚く人。

(4) 鞭、骨にこたえて驚く馬。
 肉親の死にあって、自分の無常に驚く人。

四通りの中で、私はどの馬でしょう……。
自己反省してみたいと思います。

老いも若きも関係なく、日々多くの人が亡くなっています。

「またか」
「かわいそうに」

と、テレビや新聞を見て一時的に思うけれど、
本心は一向に驚く気配もないのは一体どうしたことでしょうか。

そのしびれ切った我々の背後に
飢えに狂った猛虎が迫っているのです……。
(つづく)

Posted by gokigenyo