命は灯の風中にあるがごとし

暑かった夏も終わり、少しずつ涼しくなってきました。
夏の疲れがどっと出る頃ですので、気をつけたいと思います。

お釈迦さまの有名な譬えをお話ししています。

虎の難を逃れ、藤蔓につかまる旅人の目に飛び込んできたものは、
命としているこの藤蔓の松の木にかかっている部分を
交代交代にかじっている白と黒のネズミでした。

藤蔓以外、すがるものがない旅人にとって、
虎に出会った時よりも、
断崖絶壁にぶちあたった時よりも、
驚きであったに違いありません。

必死に藤蔓をゆらし、ネズミを追い払おうとしますが、
変わらず規則正しく、代わる代わるかじっています。

すると、旅人めがけて上から何か落ちてくる。
ネズミが小便でも垂れたかと思って手に取ってみると
何とも甘い香りがする。

そういえば、しばらく食べ物を口にしていなかった。
旅人はその手をなめてみた。
その瞬間、甘く美味しい感激が全身を貫く。
ハチミツであった。

ちょうど、松の木にミツバチが巣を作っていたのだ。
あまりにも美味しいので、今までネズミを追い払おうと振っていた
藤蔓を今度はハチミツを落とすために振るようになっていた。

旅人の頭にはもうネズミのことも、
断崖の虎も、
深海も、
三匹の毒龍(近々説明いたします)のことも
まったくなく、ハチミツに心奪われてしまったのです。

お釈迦さまがそこまで話をされた後、
ご説法を聞いていた時の王、勝光王が手を挙げる。

「お釈迦さま、この話、もうおやめください。
とても聞いておれません!旅人は何と愚かなのでしょう。
絶体絶命の危機にありながら、心はハチミツ一つに心奪われて、
我が身の大事を忘れているなんて……」

お釈迦さまは静かに口を開かれる。

「勝光王よ、この旅人は、そなたのすがたなのじゃ。
いや、王だけではない、ここにいる皆、
すべての人のことなのだ」

勝光王、そして聴衆も立ち上がる。

「私がなぜこんな愚かな旅人と言われるのでしょうか。
訳をお聞かせください」

お釈迦さまは諄々と古今東西の全人類の姿を
説法なされるのでありました。

この旅人の姿が、富山県の射水市にある親鸞会館で
聞かせていただいたことを思い出させました。

親鸞聖人という方が大変尊敬しておられた善導大師という方は
大変仏縁の深い方であった。
後生の一大事の解決をまじめに求められた方であった。

六時礼讃というお聖教に次のようにおっしゃっています。

人間そうそうとして衆務を営み、年命の日夜に去ることを覚えず。
灯火の風中にありて滅すること期し難きが如し。
忙々たる六道に定趣なし。
未だ解脱して苦海を出ずることを得ず。
如何が安然として恐懼せざらん。

毎日同じことの繰り返し。食て寝て起きてたれての繰り返し。
パンダの赤ちゃん、スカイツリーなどで退屈を紛らす。
毎日つまらない。皆同じことをしている。
政治変えたら科学が変わったらと思って一日生きたということは
後生に近づいている。一日墓に近づいた、ということ。

そんな当たり前のことを感ずる人がいない。
風の吹きすさぶ中に灯火があるように、
今晩死ぬかもしれない。
テレビ、ニュースには悲惨な事件ばかり。
未来どうなる?考えたことありますか。
なぜ考えないのか。必ず死ぬのに。

忙々たる六道に定趣なし、とは同じことの繰り返し。
はてしない、止まることがない。ぐるぐる回っている。

未だ解脱して………とは
後生の一大事解決する者がいない。
後生の一大事は阿弥陀仏しか助ける力はない。

如何が安然として………とは
なぜおそれないのか。驚くべきことに驚かないのか。
後生の一大事解決のために生きている。
苦しくともなぜ生きる。
二千畳(親鸞会館)に来られた目的、
ハッキリしていなければ一日生きても意味がない。

後生の一大事とは何か、
私たち一人一人の大問題であることをお釈迦さま、
そして七高僧と呼ばれる方々は教えてくださったのです。
(つづく)

Posted by gokigenyo