9月 16, 2009
35歳の12月8日、お釈迦様は遂に一見明星して大悟徹底、三世十方の実相を諦観せられ、三界の大導師たる仏陀となられたのです。
お釈迦さまがこのとき悟られた悟りの名前を「仏覚」(ぶっかく)と言われます。
一口にさとりと言いましても、低いさとりから高いさとりまで、52の位があると言われます。今大相撲が行われていますが、ちょうど相撲取りでも、下はフンドシ担ぎから上は大関、横綱までいろいろあるようなものです。その最高無上のさとりを「仏覚」といい、この上がありませんので、「無上覚」ともいわれます。その覚りを開かれた方だけを「仏」とか「仏さま」といわれるのです。
さとりを開くことを山登りに例えますと、一合目よりも二合目、二合目よりも三合目と、登れば登るほど、見える景色は広がっていきます。そして頂上まで登り詰めた時、辺り一面を見渡すことができるように、最高無上のさとりである仏覚まで到達した方だけが、大宇宙の真理すべてを体得することができるのです。
話はそれるかもしれませんが、しばらく大阪にいた時のことです。家近くの山頂から見渡す夜景は、ライトアップされる建物が地上に降った星々のようでそれはそれはきれいで素晴らしい眺めだったことを思い出します。
頂上から見える景色は壮観でうっとりさせるものなんですね。
話を戻します。さきほどの52あるさとりの位で、1段違えば人間と虫けらほどの境界の違いがあると言われます。私たちがゴキブリにテレビやパソコンの説明をしてその使い方を分からせることができるでしょうか。分からせようという気もおきないのではないでしょうか。
お釈迦さまは世俗の欲楽に耽っている人々、私たちにはその悟った法を理解させることができないであろう、いや私たちが理解できないばかりでなく、私たちが法を謗る結果になるかもしれないと考え一時自殺をはかられ説法を躊躇せられた程だったとお聞きします。
しかし、この歓びをあらゆる人々と、ともにしたい、の念願が心の深奥よりわき上がられたお釈迦さまは、仏の覚りを開かれてからお亡くなりになるまでの45年間、全人類の救われる道を明かされていかれたのです。それが、仏教なのです。
そのお釈迦さまの本意を、明らかにされた方が、日本にお生まれになった親鸞聖人であったのです。
そして、お釈迦さまはかつて随従した橋陳如らの救済を思い立たれたのでした。
7月 1, 2009
親鸞聖人の教えと、お釈迦様の考えと同じではないかと私は思います。
さて、菩提樹の下で
「我れ正覚を成ぜずんば、終にこの座を起たず」
と覚悟をされたシッダルタ太子(お釈迦様)ですが、じつは乳買いの娘から新鮮な乳を口にしたおかげで回復したシッダルタ太子(お釈迦様)の姿を橋陳如ら5人の従者がひそかにこの始終を見ていたのです。
「遂に太子は苦行に耐え切れず墮落した。
修行者にとっては大蛇よりも恐いといわれる女人から乳を受けた。
あんなことでは絶対さとりなど獲られるものではない。
あんな墮落者に随っていたら、我々も一緒に墮落してしまうぞ。」
とささやきながらシッダルタ太子(お釈迦様)を見捨てて西方バラナシ国に去っていきます。
確かにこれまで苦行していたシッダルタ太子(お釈迦様)が急に苦行をやめ、女人から乳を受けたとなると気がどうにかなってしまったのではないかと驚くでしょう。
シッダルタ太子(お釈迦様)の心中まで覗き見ることはできませんからね。
私がその橋陳如であったとしても、そう思うでしょう。
慕っていたからこそ、よけいに腹が立つでしょう。
シッダルタ太子(お釈迦様)の元を去っていった者たちの心中も分かります。
さて、一人、修行なされるシッダルタ太子(お釈迦様)。
修業中幾多の怪奇現象がおこります。
女色愛欲の誘惑や化怪象の威嚇などなど、一説には、悪魔がシッダルタ太子(お釈迦様)が悟ることを恐れ、さまざまな罠を仕掛けたのか、心の奥底を象徴的にえがいたものかは伺いしることは出来ません。
数多の誘惑に揺るぎもせずに静かな山の如く、深遠なること海のごときシッダルタ太子(お釈迦様)の忍耐と剛毅によって誘惑を克服されました。
35歳の12月8日、お釈迦様は遂に一見明星して大悟徹底、三世十方の実相を諦観せられ、大宇宙最高のさとりをひらかれた仏陀となられたのです。
悟りをひらかれたお釈迦様は、これから彼の元を去った橋陳如達にまず会いに行きます。
そのことについては、これから追々紹介していきますね。
繰り返しになりますが、親鸞会は親鸞聖人の教えをそのまま伝え、親鸞聖人はお釈迦さまの教えをそのまま伝えられた方。
ということは、親鸞会はお釈迦様の教えをそのまま伝えていることになりますね。
6月 20, 2009
お釈迦さまについていろいろ調べていたのですが、あるブログで親鸞聖人とお釈迦さまについて詳しく書いてありました。
さて、シッダルタ太子(お釈迦様)は、橋陳如とお供の者たちが城へ戻った後も苦行を続けます。
私たちの想像も及ばないような苦行です。
当時、悟りを開くためには苦行あるのみといった考えが当たり前でした。
シッダルタ太子(お釈迦様)もその考えにしたがい、節食・断食・呼吸の制御・特殊な立ち方や座り方などなど肉体的な苦痛を受け、五火の苦行をなどによって未来隊に打ち勝つ力をつけ、忍耐の精神と意思の鍛錬をするといったことを目的とした修行です。
しかし、これらの苦行をしても、まったくシッダルタ太子(お釈迦様)は悟りを開くことが出来なかったのです。
苦行によって心身ともに衰弱し、樹によりかからないと立っていることすらままならないお釈迦様は、苦行主義を捨てます。
「苦行によって衰弱した心身の力を回復しなければ、正しい智慧は生じない」
と考えたシッダルタ太子(お釈迦様)は、ニレゼンという河で水浴びをします。
垢を落とし、身を清められたのです。
しかし、苦行を止められたばかりの疲れ切った体では河に入ったものの、岸へはい上がる体力も気力も尽きていたのです。
そこへ通りかかった乳買いの娘にシッダルタ太子(お釈迦様)は一杯の乳の供養を請われます。
苦行によってやつれてはいたものの、シッダルタ太子(お釈迦様)のたぐいまれなる姿に乳買いの娘は喜んで新鮮な乳を捧げます。
新鮮な乳を口にしたおかげで、シッダルタ太子(お釈迦様)は気力を回復します。
そして悟りへの決意も新たにニレゼン河のほとりの菩提樹の下に座って
「我れ正覚を成ぜずんば、終にこの座を立たず」
と覚悟をされたのです。
お釈迦さまについて親鸞会のブログに書かれてありましたので、紹介させてもらいますね。
天上天下唯我独尊(釈尊) – 浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い
http://blog.goo.ne.jp/oonokatu21/e/5b5db203e802f89cd07dcd89b385c354
6月 1, 2009
一樹の下で瑞座熟思しているお釈迦様を発見した橋陳如とお供の者たちは、一同に父王を始め、妻のヤショダラ姫らからの熱烈な伝言をお釈迦様に伝えます。
「世の中の出家の動機には4通りあります。
病気や老いの苦しみ、貧しさや愛する者との死別などです。
しかし太子(お釈迦様のこと)にはこの四つの動機とも当てはまりません。
年若くて壮健で、貧しさとは縁遠く、ご家族の方がたもお変りはありません。
だというのにどうして若い楽しみを捨て、一衣一鉢の粗末な姿になられて遠い悟りを求められるのですか?」
橋陳如とお供の者たちにはシッダルタ太子(お釈迦様)の気持ちは理解できないものだったでしょう。
聡明なシッダルタ太子(お釈迦様)に次期王として城に戻ってきてほしかったことでしょう。
五人は涙ながらにお釈迦様に変心を願って帰城を懇願しました。
しかし、仏覚を成就するまでは帰国しないというシッダルタ太子(お釈迦様)の決意は大地のように強く微動だにしなかったのです。
5人にシッダルタ太子(お釈迦様)がその時答えた言葉とは・・・
「お前たちにはわからないのか、あの激しい無常の嵐が、まだ分からないのか。
ものはみな常住しないのだ。いずれの日にか衰え、いずれに日にか滅ぶのだ。
快楽の影にも無常の響きがこもっているのだ。
美女の奏ずる弦歌は欲をもって人を惑わすのみだ。
三界は悩みのみ、猛き火の如く浮かべる雲の如くj、幻や水泡の如し。
若きを愛すれどやがて老いと病と死の為に崩れ去るのだ」
シッダルタ太子(お釈迦様)の火の玉のような菩提心を聞き、橋陳如とお供の者たちは涙をのんでいったん城へ戻ることにします。
ブッダ(仏陀)とも釈尊とも呼ばれているお釈迦様の出家への意志の強さがうかがい知ることができますね。
5月 19, 2009
前回はお釈迦様と親鸞聖人と親鸞会の関係についても少しふれておきました。
おさらいしますとお釈迦様の教え(仏教)=親鸞聖人の教え(浄土真宗)=親鸞会、ということですね。
さて、今日はシッダルタ太子(お釈迦様)が出家されるあたりの頃の話から。
シッダルタ太子(お釈迦様)は、ある日、夜中にふと目を覚まされます。
すると、500人の美女たちが昼間の美しい姿はどこへやら、寝像も悪く眠りこけている姿を目の当たりにして驚愕します。
そして美しい女性たちのこの醜く眠りこけている姿こそが真の人間の姿だと出家を決断されるのです。
最愛の妻と幼い息子を抱きしめてから出家しよかとも思いましたが、抱きしめることによって目を覚ましてしまっては、出家を止めるに違いないと、後ろ髪を引かれる思いで城を出るのです。
シャノクという使者一人と白馬ケンジョク一頭だけを連れて。
シッダルタ太子(お釈迦様)が出家をされたのは、シッダルタ太子(お釈迦様)が29歳の2月8日のことでした。
若くしてこのような思いになられるとは、やはりお釈迦様としか言えないですよね。
父王はお釈迦様がいなくなったと知ると、即座に重臣たちを集め、お釈迦様の行方を聞きましたが、知る者は勿論いません。
父王は橋陳如(きょうちんにょ)という家臣に命じてシッダルタ太子(お釈迦様)を探させます。
橋陳如に4人の供をつけ、思いなおして連れ戻してくるようにと命じます。
国中を探し回った橋陳如達は、ようやく一樹の下で瑞座熟思しているお釈迦様を発見するのです。
4月 29, 2009
お釈迦様が結婚されていると言うことはよくしられてますね。
よく修行者は妻子を持ってはいけないなんてよく聞くけれど、実は浄土真宗の中にも妻子をもたれた方がありました。
それは、親鸞聖人です。
浄土真宗親鸞会は親鸞聖人の教えをそのまま伝える集まりなのですが、
親鸞会の常訓は「我ら親鸞学徒は更に珍しき法をも弘めず、親鸞聖人のみ教えを我も信じ、他人にも教え聞かしむるばかりなり」です。
これは親鸞聖人の「更に親鸞、珍しき法をも弘めず、如来の教法を我も信じ、他人にも教え聞かしむるばかりなり」の精神にのっとったものです。
ですから、親鸞聖人の教え=仏教(如来の教法)なのですね。
さて、話を戻しましょう。
お釈迦様は、四門出遊の後、老・病・死に直面してもかわらぬ幸福を得たいと出家され、ついには悟りを開かれます。
さて、お釈迦様に
「うらみをもってうらみを消すことあたわず」
というお言葉があります。
「目には目を」の逆ですよね。
お釈迦様の教えは、人々を幸せにします。
また、それが本当の宗教だと思います。
宗教によって戦争を起こすことが愚かなことじゃないかなって思っている今日この頃です。
4月 18, 2009
前述のお城の門を出て出家したいと願うシッダルタ太子(のちのお釈迦様)のことで書き忘れたことがあったので補足しておきますね。
4方向の門から出、老・病・死について苦悶し、最後に修行者と出会い出家したいと強く願うようになったことを『四門出遊』といわれます。
もの思いにふけられるようになったシッダルタ太子(お釈迦様)を心配し、父王は国一番の美女、ヤショダラ姫と結婚させます。
それでも太子の暗い心を晴らすことはできませんでした。
その後、父王はお釈迦様を何とか留めようと春夏秋冬・四季に合った御殿を建て、500人の美女に昼夜歌舞を奏させてお釈迦様を慰めようとしました。
それでも、本当の幸福を求める太子の心はとどめることはできず、
「出家したい」という思いを父王の前で申し出ます。
父王は驚きます。
当然ですよね。
地位も名誉も財産もましてや才能も生まれもっているというのに、それらすべてを投げ売って出家したいと言っているのですから。
普通その恵まれた環境からあえて修行の道を選ぶ人なんていないでしょうし、お釈迦様はその才能から次期王としてふさわしい人物でしたから。
父王は「何が不足でそんなことを言い出すのだ!望みは何でも叶えてやる」と言いました。
すると若きお釈迦様は
「それならば3つの願いがございます。
決して老いない体になること
決して病にならない体になること
決して死なない体になること
これらを叶えてくださるのであれば、出家せずにとどまりましょう」
と答えたのです。
その様な願いは叶えることが出来るはずもなく、父王はその場を去ります。
4月 6, 2009
お釈迦様はいく日もこの人間の世界の矛盾について考えられ、ある日気晴らしにとカピラ城の外に出てみます。
東門から外に出ると、腰は曲がり、歯は抜け落ち、しわしわをした老人と遭遇します。
老人がよろよろと杖をついてやっとやっと歩いていくその姿を見てお釈迦様は
「私もいつかあのように年老い、体力もなくなくなって苦しむのだろうか・・・・」
と苦悶します。
別の日、お釈迦様は南門から城の外に出てみると、伝染病によって体はやつれ、生気もないような姿でうめき苦しむ病人に出会います。
その病人の姿を見たお釈迦様は、
「私もいつあのように病に襲われるやも分からない・・・・」
と苦悶します。
別の日、お釈迦様は今度は西門から城の外に出てみます。
すると、葬式の列に遭遇します。
お釈迦様は
「生あるものはいつか必ず死ぬ。私もいつか死に、あのように見送られる時が来るのだ。もしかしたらそれは明日かもしれない、それは身分など関係なく皆同じことなのだ・・・・」
「老」「病」「死」を目の当たりにしたお釈迦様は、これらの人間である以上避けては通ることのできない現実に苦悶するのです。
最後にお釈迦様は北門から城の外に出てみます。
その時であったのが、法服姿の修行者です。
この修行者を見てからお釈迦様は自身も出家して「老」「病」「死」に直面してもゆるぎない幸福を求めたいと願うようになったのです。
この時の修行者として出家したいという思いがお釈迦様の出発点なのかもしれませんね。
3月 26, 2009
お釈迦様はその聡明さゆえに年を追うごとに悩みを深めていき、考え事をする時間が増えていきました。
そんなある日、ふと空を見上げると、虫を食べている小鳥を、更に強い鳥が襲っている光景を目の当たりにして衝撃を受けます。
「このような弱肉強食の世界は動物たちだけの世界のことだろうか?人間にも当てはまっているのではないだろうか?」と。
それまで王族として地位も名誉も財産も、そして才能にも恵まれていたお釈迦様が自分の立場に疑問を感じた時なのかもしれませんね。
そして自分の周りの世界に疑問の目を向けます。
インドと言えば、厳しい身分制度があることは皆さんもよくご存知かと思われます。
身分が違えば、結婚することは勿論出来なければ、話をすることすら禁じられるほどの厳しい身分制度。
武士は市民に権力を振りかざし、市民は奴隷に権力を振りかざす。
弱肉強食の世界は動物の世界も人間の世界も同じこと。
だからと言って、強者は幸せなのだろうかと考えてみる。
地位や財産がなければないと苦しむけれど、だからといって、地位が財産があっても、それがいつ奪われてしまうのではないかと苦しむ。
どっちに転んでも苦しんでいて幸せではないのだと世の中の矛盾にお釈迦様は考え込まれていたのだそう。
お釈迦様自身が当時地位も、名誉も、財産も、才能さえあるというのに幸せだと感じなかったからこそ、そのようなことを考えてしまうのかもしれませんね。
自身が幸せだと思っていれば、それに満足して考え事などしないでしょう。
3月 13, 2009
お釈迦様は幼名をゴータマ・シッダールタと言われました。
今から約2,500年前の4月8日、ヒマラヤ山脈のふもと(現在のネパール)
で浄飯王と、妃マーヤー夫人(ぶにん)との間に皇太子として生まれ、将来王になることが約束されていました。
マーヤー夫人は、初産のため、里帰りする途中、ルンビニーの花園で休憩しているときにゴータマ・シッダールタを出産されたのですが、そのお祝いとして今でも4月8日には花祭りと言われる、お釈迦さまの誕生を祝う風習があるのです。
マーヤー夫人は出産後一週間でなくなってしまい、お釈迦様はマーヤ夫人の妹マカマヤ夫人(ぶにん)によって育てられます。
さて、その後のお釈迦様ですが、お釈迦様は幼いころから大変聡明だったようで、お釈迦様が7歳のときには文武の先生にバッダラニーとダイダイバーと言って、その道で国一番とも言われていた人たちを迎えています。
しかも一言えば十を理解し、学問だけでなく、弓道、馬術、剣道、相撲などを同じ年頃の友人たちと競っても負けることがなく、周囲を驚かせるほどであったそうです。
一を言えば十理解するお釈迦様が、学問の先生バッダラニーと武芸の先生センダイダイバーからもう教わることがなくなり、二人が父王に「もうお教えすることはありません」と辞職を希望してからは、独学で様々なことを学ぶことになるのです。