5月 21, 2012

天下無敵の力士に勝る者

5月も連休が終わり、あっと言う間に半月が過ぎました。
光陰矢の如しと言われます。

「何となく過ぎていく毎日……。
同じことの繰り返しで一日が終わる。

周りには家族がいて、友達もいる。
当たり前のことが当たり前のように過ぎていく。

そんな日常がずっと続くと思っている……。

とくに不満もないが、何かが足りないとも思う。

このままでいいのかな……」

知り合いのつぶやきですが、
皆さんはいかが思われますでしょうか……。

さて、
お釈迦さまの譬え話を続けたいと思います。

寂しい野原を歩く旅人の前方から
異様なうなり声が聞こえる。

旅人が目を凝らすと
薄暗い前方から大きな影が近づいてくるのが見えた。

それはなんと、
飢えた大きな虎だった。

その時、旅人はさとった。
人骨が散在していた理由を。そして自分も食われて骨と化してしまう
恐ろしい未来を。

旅人はそう気づくやいなや、脱兎のごとく
もと来た道を引き返した。

虎は猛然と旅人めがけて走ってくる。
所詮は人間と虎のかけっこ、必ず追いつかれることは分かっていた。

あまりに慌てて、旅人は道を間違える。
やがて道は途切れ、断崖絶壁にぶち当たってしまった。

虎はもう、すぐそこまで迫っていた。

もうダメだ!と断崖絶壁にあった松の木を
クルクル回り出したその時、

「犬も歩けば棒に当たる」

その松の木の根元から
一本の藤づるが垂れ下がっているのを発見した。

その藤蔓につかまってすり落ちたと同時に
虎が走り着いた。

獲物を逃がした虎は悔しさから
旅人の頭上で何度も吠えていた……。

この虎はいったい何を表しているのでしょうか。
それは私たちに突然やってくる
『無常の風』である、とお釈迦さまは
教えられています。

無常とは何か。

仏教で

「諸行無常」

と教えられています。

諸行とはすべてもの、ということ。
無常とは常が無く、続かない、ということ。

この世の一切は続かない、変わらないものは
何一つない、ということです。

そんな世界に私たちは住んでいる、ということを
有名な歎異抄には

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は……」

と言われています。

私たちにとって、死ほどの無常はありません。

突然やってくる風の如く、死は予測不可能であり、
すべての人にとって、逃れようもありませんから

この飢えた虎を「無常の風」と教えられているのです。

徳川時代に有名な力士であった谷風という
関取があった。

ある日のこと、野原を歩いていた谷風のところへ
小さな小僧がやってきて

「関取一番とろうか」

と途方もないことを言ってきた。

谷風 「ワシを日の下開山と知ってのことか」

小僧 「知っていればこそ、一番取ろうと言ったのだ」

谷風 「おのれ生意気なヤツ。どこからでもかかってこい」

取り組んでみると、この小僧、ところが中々腕力がある。
谷風、満身の力を出したが、びくともしない。

やがて遂に、谷風は、草むらに
放り投げられてしまった。

子供に尻餅をつかされ、驚いた谷風は

「ヤア小僧、暫く待った。この谷風は天下無敵と
自他共に認めていたところじゃが、お主はワシよりも
一倍強い。お主はいったい、何者じゃ。名前を聞かせて
くれい」

小僧、笑って
「貴方は谷風でも、私は『無常の風』じゃ」

と言ったという。

なるほど、どんな英雄豪傑や日の下開山の谷風でも
もうこの世にはいません。

無常の虎は無敵であり、
今までどれだけの人が食い殺されていったかしれません。

いえ、それは他人事ではありません。
私たち一人一人の背後にそれぞれの無常の虎が
迫っているのです。

そんな状況にありながら、
一大事に驚かないのはなぜでしょうか……。

つづく

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Posted by gokigenyo
1月 24, 2012

仏眼に映る私の姿

1月もあっという間に20日を過ぎました。
インフルエンザ流行のニュースを
耳にするようになりました。

・こまめな手洗い、うがいを徹底する。
・咳やくしゃみが出る場合は咳エチケット、マスクをする。

そして十分な休養とバランスの良い食生活を
心がけて乗り越えたいと思います。

昨年から、人間とはどういうものか、
仏の眼から御覧になられた私たち人間は
どんな姿をしているのか、

ということをお釈迦さまの譬え話を
通して学んでおります。

話は変わりますが、今は雪の降る寒い季節。
仕事場近くのアジサイが雪から守るために
ナワで縛られています。
そのナワと同じ色になって、
もう枯れてしまったのではないか、とさえ思う
そのアジサイも6月頃になれば綺麗な花を咲かせます。

冬の間だけ生きる虫がいれば、
この枯れ木が、あの色鮮やかな
アジサイになるなんて、
夢にも思えないでしょう。

いっぽう、人間の寿命は延びたと言っても大宇宙の歴史に比べれば
瞬きするほどの間もありません。

無量寿の仏さまから私たち人間を御覧になると、
どうでしょうか。
明日とも知れぬ命を持ちながら、
一体どこに向かっているのか。

「世人薄俗にして、共に不急の事を諍う」(『大無量寿経』)

「世の中の人は、目先のことばかりに心をうばわれて、
無明の闇を破る人生の大事を知らない」

仏眼に映る、私たちの知らない本当の自分を
心静かに見つめていかねばならない時が
今ではないか、と思います。

譬え話に戻ります。

急ぐ家路で、広がる人間の白骨に旅人は驚きました。

それは私たちが他人の死を見たり、聞いたりした時の
驚きをお釈迦さまは譬えておられるのです。

我が身の無常に対する感度を
四通りの馬にさらに譬えてお釈迦さまは表されています。

1.鞭影を見て驚く馬。
2.鞭、毛に触れて驚く馬。
3.鞭、肉に当たって驚く馬。
4.鞭、骨にこたえて驚く馬。

以下に簡単に説明しましょう。

(1) 鞭影を見て驚く馬。
 落花や火葬場より立ち昇る煙を眺めて、やがて我が身にも襲いかかる死に驚く人。
「鳥辺山 昨日の煙 今日も立つ
    眺めて通る 人も何時まで」
 最も無常に敏感な人。

(2) 鞭、毛に触れて驚く馬。
 葬式の行列や霊柩車を見て我が身の無常に驚く人。

(3) 鞭、肉に当たって驚く馬。
 親戚や隣家の人の葬式で、我が身の無常に驚く人。

(4) 鞭、骨にこたえて驚く馬。
 肉親の死にあって、自分の無常に驚く人。

四通りの中で、私はどの馬でしょう……。
自己反省してみたいと思います。

老いも若きも関係なく、日々多くの人が亡くなっています。

「またか」
「かわいそうに」

と、テレビや新聞を見て一時的に思うけれど、
本心は一向に驚く気配もないのは一体どうしたことでしょうか。

そのしびれ切った我々の背後に
飢えに狂った猛虎が迫っているのです……。
(つづく)

Posted by gokigenyo
11月 8, 2011

お釈迦さまの「四馬の譬喩」

11月も1週間を過ぎ、今年もあと2カ月を
きりました。

「光陰矢のごとし」という言葉が身にしみます。

1年があっと言う間ならば、その繰り返しの人生もまた、
あっ、という間。

今までを振り返れば、10年、20年といっても、
放たれた矢が的を射る、そんなまばたきする間よりも
短く感じるのかもしれません。

さて、今まで
お釈迦さまの譬え話を通して学んでいました。

続けたいと思います。

木枯らしの吹く秋の夕暮れ、一人旅人は先を急ぎます。

すると足下に、白いチョークのようなものが
あちこち落ちているのを見つける。

これは人間の白骨……。
なぜ、火葬場でもないところに白骨が、と
いぶかっていた旅人に大きなうなり声と足音が
聞こえてくる。

目を凝らして前方を見てみると、飢えた大きな虎が旅人に
近づいてくるではないか。

旅人は瞬時に気がついた。これらは虎に食われた残骸であった。
このままではオレも食べられてしまう……。

ここで旅人が白骨を見て驚いた、とは
私たちが他人の死を見たり、聞いたりした時の
驚きを、お釈迦さまは譬えておられるのです。

なぜ驚くのか。他人の死を通して、
我が身も死んでいかねばならないのか、と頭をよぎります。

日常は忘却のかなたにある、死という
恐ろしい影が足下に迫っていることを感ずるから
かもしれません。

お釈迦さまはその我が身の無常に対する感度を
四通りの馬にさらに譬えて表されています。

1.鞭影を見て驚く馬。
2.鞭、毛に触れて驚く馬。
3.鞭、肉に当たって驚く馬。
4.鞭、骨にこたえて驚く馬。

詳しく、親鸞会で聞かせてもらいましたので、
お話ししたいと思います。

1.の鞭影を見て驚く馬、とは、
散る桜、花を見て、または火葬場より立ち昇る煙を眺めて、
やがて我が身にも襲いかかる死に驚く人のことを譬えられています。

このような歌があります。

「鳥辺山 昨日の煙 今日も立つ 眺めて通る 人も何時まで」

昔、京都にあった鳥辺山は火葬場で知られる。
その煙を昨日、そして今日眺めて通る旅人も
いつまでも眺めておれるものではない。

やがて自分が死んで、焼かれて、他人にその煙を
眺められる時が必ず来るのだよ、
ということが歌われているのです。

私たちは今日は他人の身、明日は我が身と頭で思っていても、
明日になれば、まだ死なない、自分が死ぬなんて、
これっぽっちも思っていません。

そろそろ来年の手帳を買わなくては、
と思っている。
年末年始はこうしよう、来週はああしよう。
明日の食事準備も抜かりはありません。

しかし、突然の大津波で、
地震で、交通事故で、病気で、未記入の手帳を残して
どれだけの人が亡くなっていることでしょうか。

自分がそうなるとは毛頭思えないのです。

私たちはよもやよもやと自惚れて、死、という今晩かもしれない、
確実な未来さえも知ることができない者ではないでしょうか。

2.鞭、毛に触れて驚く馬。は次回お話ししたいと思います。

つづく

Posted by gokigenyo
9月 17, 2011

底知れぬ程淋しい処が人生である

9月も中頃となりましたが、
残暑が厳しいです……。

今日も各地で熱中症で倒れた方があったと
聞きました。

夏の疲れが出る時期ですので、
こまめに水分と塩分をとって、
乗り越えたいと思います!

お釈迦さまの有名な
「人間の実相」の譬え話について
お話ししておりました。

ここで、旅人に譬えられているのは、
すべての人でありました。

その旅人が旅をしている季節は秋の夕暮れです。

木枯らしの吹く、物寂しい雰囲気の
秋の夕暮れ時です。

お釈迦さまは何に譬えられているのでしょうか。

私たちの人生は寂しい、ということです。

いやー、そんな寂しくないよ。
友達もいるし、夫も、妻も、子供もいる。
両親もいるし。

そう思われる方もあるかもしれません。

ここでお釈迦さまが教えられているのは、
肉体の連れがないのではなく、
魂の連れがない、と言うことです。

魂の連れがないとはどういうことでしょうか。
お釈迦さまは次のように教えられています。

独生独死 独去独来
(大無量寿経)

独りで生まれてきたのだから、独りで死んでいく。
生まれてから死ぬまで私たちは独りぼっちなのです。

妻子、親、友人に自分を分かってもらいたい。
しかし分かってもらえない。
分かってもらえる範囲でしか分かってもらえません。

本当は、自分自身さえ分からないのですから。
それを他人に分かってもらおうなんて土台無理なこと
なのです。

昔から、汝自身を知れ、と言われます。
一番知っているようで分からないのが私。

知るとのみ 思いながらに何よりも
知られぬものは 己なりけり

私たちの魂は底知れぬほど寂しいのです。
分かってもらいたいけれど、
分かってもらえない。

数年前、15歳の女の子が、
父親が寝ているところを刺し殺した、という事件が
ありました。

どうにでもなれ、と言う心から。
親を殺して自分も死んでやろうと思っていた
そうです……。

同じような毎日の繰り返しに、
「どうにでもなれ!」と思わない人はないのでは
ないでしょうか……。

では、その心はいったい、どこから来るのでしょうか。
さびしい、という心から出てくるのです。
底知れぬ寂しさと不安に私たちは震え、
悩み苦しんでいるのです。

その心を心底から分かって下される方があった、と
今年750回忌である親鸞聖人は次のように教えられています。

弥陀五劫の思惟の願をよくよく案ずればひとえに親鸞一人がためなりけり。
(歎異抄)

五劫という永い間、熟慮に熟慮を重ねて建ててくだされた弥陀の本願は、全く、こんな親鸞一人のためでありました。

私のすべてを分かってくださる方があった。
そういう時が必ずくる。
その為に私たちは生きているのです。

親鸞会の一日一訓カレンダー(18日)
を思い出さずにおれません。

「底知れぬ程淋しい処が人生である。
それが信心決定すれば(弥陀に救われれば)無限に楽しい人生となる」

つづく

Posted by gokigenyo
7月 26, 2011

自分の番は今日かもしれない

猛暑が続いています。
まだ暑さはこれからでしょうか。

もうすぐ8月、お盆の時期ですね。
お盆の時期になると次の歌を思い出します。

鳥辺山 昨日の煙 今日も立つ
眺めて通る 人もいつまで

鳥辺山とは昔、京都にあった火葬場です。
煙がそこから立っているということは
誰か人が亡くなった、ということです。

昨日そこを通りがかった旅人が、
今日も煙が立っていることを見て

「今日も人が死ぬ日であったか……」

と家路を急ぐ。しかし、

その旅人もいつまで人の死を眺めておれる
だろうか。

やがて必ず、自分が死んで、自分の煙を
人に眺められる時が来るのだ。

100%確実な未来の準備はよいか、
と切り込まれている、そう思わずにおれません。

お盆は、亡くなった他人のための行事、
というくらいにしか思ってないのではないか。

自分が死んで追悼される日が必ずくる。

飛行機に墜落以上の大事はないように、
人生に死ぬ以上の大事はないでしょう。

生死の一大事とも、後生の一大事ともいわれる
ゆえんでです。

お盆は後生の一大事を知り、その解決に
向かって聞法精進させていただく、そういう
ご縁とさせていただかねば、と思います……。

お釈迦さまの譬え話にもどります。

すべての人は旅人であるとお釈迦さまは教えられます。

どこかへ向かっている。
どこから来て、どこへ行くのでしょうか。

「世の中の 娘が嫁と花咲いて
 嬶としぼんで 婆と散りゆく」

禅僧・一休はうたいました。

旅をしていくと自分の呼び名が変わっていく。
じっとしてはおれないのです。

娘と言われていたのに、もう結婚して、子供ができて、
孫もでき、お婆さんになってしまった……。

ものすごい勢いで進んでいるのだけは、間違いありません。

来たとこ知らず、行くとこ知らず。
迫る未来をだれも知らない。行く先が大切なのに、
分からない。だれも問題にしない。

そういう全人類に、

それでいいのか、
人生の目的を知りなさい

と、お釈迦さまは2600年前から
問い続けておられるのはないでしょうか。

つづく

Posted by gokigenyo
6月 22, 2011

幸せを求めて……

今、ブッダがブームですね。
書店や映画でもよく「ブッダ」というお名前に
触れるように思います。

世界最高の偉人と言われますが、
いったい、何を教えられた方なのでしょう。

その教えを、お釈迦さまが説かれた譬え話を
通してお話ししています。

お釈迦さまは
私たちすべての人を「旅人」と譬えられました。

昔の歌に

「人はだれでも幸せ探す 旅人のようなもの」

というフレーズがありました。

幸せ求めている旅人が私。異論を唱える人は
ないのでは、と思います。

それでは、幸せって何だろう?
私たちにとって、幸福とは?

そんな素朴な疑問をテーマに
先日、NHKのクローズアップ現代
が放映されていました。

「幸せのモノサシ
 ~指標づくりの模索~」
というタイトルでした。

視聴した感想は、

・幸せとは何かは、人それぞれであり、
これが幸せ、というモノサシを決めるのは簡単なことではない。

・金や物が豊かになることが、幸せである、と先進国はじめ
世界中が思っていたことも、そうではないのでは、という向きに
変わってきている。

・人と人とのつながり、共有、そして
人に思いやり、相手が喜ぶのを幸せと感ずる人が
大震災の後、多くなっている。

ということでした。

そして、

番組の始めに、インタビューで
幸せとは何ですか?と尋ねられた人のほとんどが
分からない、あるいは人それぞれ、と答えていたことが
印象に残りました。

幸せ求めて生きているのに、社会全体が
幸せとは何か分からない、幸せとは何かを
模索しているという現実を改めて知らされた思いです。

どんな時に幸せを感ずるか、ということについて、
ボランティア精神、相手の人に幸せになってもらいたいという
心に触れたとき、親切した相手の喜ぶ顔を見た時ではないか、
というようなことをゲストの糸井重里氏が言っていました。

お釈迦さまはすべての人が知りたい、
本当の幸福と何か、ということを教えられています。

えっ?本当なの?と目を丸くする人もいると
思います。

ブッダブームにのって、お釈迦さまが教えられた
真の幸せを一人でも多くの人に知ってもらいたい、
そう念ずるばかりです。

そしてその本当の幸福になれる道、
自利利他の布施の精神の大切さを、知らされた者から
お伝えせねばならないと思いました。

続けて、譬え話を進めていきたいと思います。

Posted by gokigenyo
5月 19, 2011

わたしのゆく先は……

過ごしやすく、
外に出て散歩するのが気持ちいい季節となりました。

早速、お釈迦さまのたとえ話について、進めたいと思います。

『旅人』と譬えられたのは、
私たちすべての人のことです。

このブログをご覧になっている『あなた』のことなのです。

なぜ、『旅人』なのでしょうか。

流行歌で人生をよく、旅にたとえられているのをご存知ないでしょうか。

私たちは昨日から今日、今日から明日へとどこかに向かって進んでいます。
じーっとしていても、肉体は変化している。じっとしてはおれないのです。

ではどこへ向かってでしょうか。

旅をするに、もっとも先に考えねばならないことはその目的地。
目的が決まってはじめて、どうやって行こう、という手段が決まります。

では私たちはいったいどこへ向かって旅をしているのでしょうか。
人間として、まず考えねばならない、知らねばならないことでしょう。

お釈迦さまはその目的の大切さを「旅人」と譬えられて
教えられているのです。

旅といえば、いろいろな人との出会いもあれば別れもある。

そしていつも同じ平坦な道ではなく、
坂道もあれば、下り坂もある。

天気の日もあれば、暴風雨の時もある。

人生に順境や逆境があるのに似ています。

では、その旅のはじまりは?

お釈迦さまは果てしなく広い野原を旅する旅人が、私である、
と教えられています。

私たちはどこから来て、どこへ行こうとしているのでしょうか。

来たとこ知らず、行くとこ知らず。

その人間の本当の姿を、お釈迦さまは
2600年の時を経て、今私たちに説かんとされているのです。

つづく

Posted by gokigenyo
4月 7, 2011

全人類の一大事

東日本大震災にあわれた皆様に心より
お見舞い申し上げます。

自分ができることは何か、
精一杯、支援をさせていただきたいと
思わずにおれません。

前回の続きをお話しします。

仏教の役割は?
仏教の受け持ちは何か?

不安定な世にあって、苦しみ悩みに寄りそうことでしょうか。
就職を斡旋することでしょうか。
葬式、法事、墓番だけでしょうか。

釈迦は生涯、何を教えられたのか。
後生の一大事とその解決の道一つであった。

それだけ、と
聞けば驚くでしょうか。

その後生の一大事、仏教の役割について
有名なたとえ話を通して知っていただきたいと思います。

遠い昔のこと。

一人の旅人が誰もいない果てしない野原を旅をしていた。
背中に金銀財宝を背負っていた。

するとふと、足下に白骨を見つける。

おかしいな、火葬場でも墓場でもないのに……。

不審に思いながらも歩を進めると、
前方から異様なうなり声が聞こえてきた。

やがて、飢えた大きな虎が自分めがけて
突進してくるのを発見!

旅人は即座に、白骨の意味を知り、
金銀財宝を捨てて逃げた。

もと来た道を間違えて、
たどり着いた先は断崖絶壁。

そこにあった松の木をぐるぐる回るしかない。
すると松の木の根本から藤蔓が垂れているのを見つけ、
命からがらつたって跳び降りた。

目の前で獲物を逃がした虎は、悔しそうに鳴く。

やれやれ、一安心。
落ちたらどうなるかと下を見ると、
深い海、そしてその中から三匹の毒龍が大きな口を開けている。

ガチガチ震えは止まらない。

しかし、この藤蔓にさえ
つかまっておれば大丈夫と、安心しようとする。

すると腹がへってきたことに気づく。

悲しいかな、恐ろしいことも、悲しいことも、嬉しいことでさえ、
人間の感情は続かない。

これからどうするか、腹ごしらえしてから考えるか。
食べ物求めてふと上を見上げると、

白と黒のネズミが、命である藤蔓をかじっているのを発見した。

ネズミを追い払おうと藤蔓を振ると
蜂蜜が落ちてきて、思わずなめた。

するとあまりの美味しさに全身がしびれて、
その蜂蜜をなめることにこころ奪われ、
虎がいることも、
下には深海、毒龍が待ち受けていることも、
ネズミが藤蔓をかじり続けていることも
みな忘れてしまったのだ。

その釈迦の説法を聞いていたある一人が

「聞いておれません!」

と声を上げる。

「お釈迦さま!この旅人はなんと愚か者でしょうか。
 こんな恐ろしいところにおりながら、
 蜂蜜に心奪われ、大事を忘れてしまっているとは」

すかさず釈迦は

「この旅人はそなたの姿である、
 いや、すべての人間の偽らざる実相なのだ」

と仰った。

「えっ?どうしてこんな愚かな旅人が私なのですか?」

聞いていた者皆立ち上がって釈迦に問う。

「これは人間すべての問題。
 全人類に一大事があるのだ」

と諄々とこの譬えの意味することをお話になったのです。
(つづく)

Posted by gokigenyo
3月 7, 2011

仏教の役割

1,2月もあっという間に過ぎ去り、
花咲く春まであと一歩、というところでしょうか。

先日、クローズアップ現代で
「岐路に立つお寺 ~問われる宗教の役割~」
が放映されました。

視聴率も大変高かったそうで、
仏教に対する世間の関心が高いことが分かります。

その中でゲストが
あるアンケートを紹介していました。

仏教にいい印象を持っているのは、90%。
しかし、寺に、となると25%となり、
まして僧侶には、10%となるとのこと。

仏教には何か、大切なことが教えられている、
ということは感じる。

しかし、今の寺や坊主は
その教えを伝えていない、
実践していない、
何か違うのではないか、

という意識が広くあることを示す
結果であると思います。

政治や経済など
それぞれ役割があって、
それが遂行されて、
私たちは生きています。

では仏教の役割は何でしょうか?

はたして、二千六百年前、
お釈迦さまは80年の生涯、
私たちに何を伝えようとなされたのか、
その私たちへの役割が
今まさに問われているのではないでしょうか。

政治、経済、科学や医学、
倫理、道徳とはまったく違う、

仏教の受け持ちとは、何か?

そのことについて教えられた、
お釈迦さまのたとえ話が
昨日6日、親鸞会のご法話で
明らかにされました。

続けてお話ししたいと思います。

Posted by gokigenyo
1月 4, 2011

「捨てる」ことは難しい

今日から仕事始め、という方も
多いのではと思います。

正月を故郷で迎えたのが、つい昨日のように
感じられるのは私だけでしょうか。

1年があっというま。

何かと物が多くなってきた家の整理をしてて
こんなこともあったな、あの人はもういないんだな……
などいろいろ思い出します。

そんな中、服でも物でも、まるまる1年間使わなかった物がある。
本当に必要なものなのだろうか。

いらない物をバッサリ捨てて整理したい、という
強い気持ちがなかなか続かず、悩んで、なかなか進まない……。

先日、クローズアップ現代で
「“断捨離” 人生の大そうじをする人々」
が放送されていました。

「断捨離は整理や収納のノウハウを教える単なる片づけ術ではありません。
大切なのは物と向き合い今の自分に本当に必要かどうか考えること。
それによって生き方そのものを見つめ直すことにつながるのだといいます」
(「クローズアップ現代」より)

2010年の流行語大賞にノミネートされるほど、
関心が高い“断捨離”に、
私を含め、物や情報に溢れ、自分を見失って、身動きがとれず、
苦しんでいる多くの人の姿が目に見えるようです。

思い切って「捨てる」ことは難しい。
欲との戦いです。捨てる工夫ができるかどうかで、
その人が成長できるかどうか決まる、とも聞いたことが
あります。

「捨てる」ことで、本当に必要なものは、何か。
無駄なものがそぎ落とされ、本当に大事なものが見えてくるかも
しれません。

いや、待てよ……。そういえば、
自分が死んでしまったら、
自分の物、と思っているものは
家族によってすべて捨てられるでしょう。

死んで何一つ持っていけない。

蓮如上人という方の次のお言葉を思い出します。

「まことに死せんときは、
かねてたのみおきつる妻子も財宝も
わが身には一つも相添うことあるべからず。

されば死出の山路のすえ、
三塗の大河をばただ一人でこそ行きなんずれ」

信じ切っていた妻子や、かき集めたすべての物に見捨てられ、
一人寂しく、丸裸になって死んでいく。

私はいったい何処に行くのでしょうか。
死んだらどうなるのでしょうか。
自分の魂は、どこから来て、どこに去っていくのか。

お釈迦さまから続けて聞かせていただきたいと思います。

Posted by gokigenyo